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第66話

 確かに聞き覚えがあるはずなのに、妙に色香を伴ったような、酷く大人な感じのする男の声が頭の中で止んではくれない。それらを振り払うように、紫苑はいきなり遼平の腕を鷲掴みすると、そのままグイグイとベッドへと引っぱって行った。 「だったら、今からヤり直そうぜ」 「は……? ってお前ッ、ちょっ……!」 「俺はお前以外とはぜってーヤんねえ……!」 「何言ってんだ……当たり前だろうが」 「お前がいいんだ! お前だけがっ……いいんだ」 「――紫苑?」 「お前じゃなきゃ……ダメなんだ……俺は」  そう、例え姿形がどんなにそっくりであろうが、お前でなければ意味がない。やさしくて、少し口べたでもあって、巧い言葉など殆ど言わないけれど、思いやりがあって誰よりもあたたかく大きな気持ちで受け止めてくれる。そんな男の腕に抱かれていたい。今まで傍にあるのが当たり前だと思っていたこの存在の大切さを、改めて突き付けられたようでどうしようもなく心が震える。 「お前がいいんだ遼平。俺はお前が……遼平がいいいんだ」  だからずっと、ずっとこのまま、できるならばもっと激しく苦しいくらいに抱き締めて離さないで欲しい。気を失ってしまった後に、昨夜の『遼二』という男と自分がどうなったのかという覚えがないことが恐ろしくてならない。何かされたのか、それとも未遂だったのか、それすらも思い出せないことが無性に怖くて堪らなかった。遼平という唯一人の男に包まれて、あれは夢だったのだとこの身体に刻み込みたい。そして昨夜の嫌な記憶を拭い去ってしまいたい。  だから頼むよ――!  まるで必死という勢いで懇願するように抱き付いてくる紫苑の様子に、遼平はまたもや意外そうに見つめながらも、しっかりと彼を抱き締め返した。 「……ったく、朝っぱらからサカってんのがバレたらどーすんだ?」  ぶっきらぼうな台詞と共にチィと舌打ちをしながらも、その頬をしっかりと紅潮させて照れる様子を目にしながら、紫苑は何ものにも代え難い大いなる安堵感に身を預けた。 ◇    ◇    ◇  その日の午後、遼平と紫苑の二人は倫周に連れられて都内にある事務所へと戻っていた。  昨日の夕刻に啖呵を切って飛び出してから、まだ一両日と経ってはいない。それなのにひどく久し振りに訪れたように感じられるのは何故だろう。  相も変わらずの無表情でじっとこちらを見据えている氷川の顔を見れば、何ともいえない複雑な感情がモヤモヤと胸をざわつかせる。  それに加えて、まるで自分たちと氷川との間を仲裁するふうな面持ちで同席している社長の帝斗と、何かと不安げで落ち着かない様子の倫周もいるせいで、ますます何を話していいか分からなくなる。いっそのこと、氷川の方から「少しは頭が冷えたか」くらいの嫌味でも浴びせられる方が楽な心地がしていた。  誰もがそれぞれの胸中を窺うふうな間合いが続き、しばしは吐息やちょっとした衣擦れの音までもが伝わるくらいの沈黙状態だった。  はっきりいって窮屈この上ない。  そんな重苦しい空気に堪え切れなくなってか、ひと言目を発したのは遼平だった。 「あの……昨夜はお世話になって……本当にすみませんでした」  そう言って深めに頭を下げる。これは社長の帝斗に対する礼と詫びを兼ねた言葉だろう。ともかくは一晩世話になったことへの礼を述べた彼を横目にしながら、紫苑もそれに同調するようにペコリと頭を下げてみせた。 「よく休めたかい?」  帝斗は軽い笑みと共に穏やかな口調でそう返した。 「はい、お陰様で……」 「そう。それはよかった」  そんな会話の傍らでは、倫周がホッとしたように安堵の面持ちを浮かべている。どうにも重苦しい沈黙が何とか打破できたことへの安心感なのだろう、分かりやすく思っていることが顔に出る彼の態度に安堵と癒やしを覚えると同時に、遼平も紫苑も何だか申し訳ない思いで胸がいっぱいになるのを感じていた。

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