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第67話

 そうだ。こんなふうに接してもらえれば、存外素直に自分たちの思っていることを打ち明けられるのかも知れない。例えば、もっと自分たちの表現したい音楽に挑戦させてもらえないだろうか、とか、或いは昨日は事務所を辞めるなどと言ってしまって後悔している、でもいいだろう。  いつも穏やかで紳士的な帝斗と、人が好過ぎるくらいの倫周が相手なら、自分たちも心から素直になれそうだ。戸惑いや我が儘、そして依頼心までをもひっくるめて、すべてを洗いざらいぶつけるのも悪くない。  そんな思いでチラリと視線をやれど、肝心の氷川は変わらずに仏頂面を装ったままなのに、一気に前向きな思考が削がれるような気がしていた。  だが、とにかくこのままでは進展しない。帝斗や倫周も、ただ見守るだけで格別には仲裁に入って話を切り出してくれるわけでもなさそうだ。そう思った紫苑は、胸ポケットの内側に忍ばせてきた例の黒革の手帳を取り出すと、おずおずと氷川の前へと歩を進めて、それを差し出した。 「あの、これ……」  卓上に置かれた手帳を目にするや、ほんの一瞬驚いたように瞳を見開いた氷川の様子に、思わずドキリと心拍数が上がる。  彼がどんな反応をするのだろう、何を言われるのだろうという心配は無論だが、それ以上に今の驚きの表情がひどく意外に思えて、紫苑も、そして遼平も思わずゴクリと喉を鳴らしてしまった。 「――何でこれをお前が持ってる?」  少しためらいがちに手を伸ばし、だが心の底からホッとしたような表情を浮かべては、そんな問い掛けを返して寄こす。たったそれだけで、氷川がどんなに必死になってこの手帳を探していたのかが分かるようだった。  おそらく失くしたと思って、ほうぼう探し回ったに違いない。驚きと安堵の入りまじった表情は、普段の彼からは想像もつかないほどの『素』の印象が色濃く映し出されてもいて、何だか感慨深い思いに胸が締め付けられるようだ。  いつも完璧で隙のなく、仏頂面が似合いのこの男が、実はひどく脆くてやさしくて、それは自分たちと何ら変わりのないただの男のようにも思えて、奇妙な程に心が揺さぶられる。  こんなふうに見える彼だって、迷いもするし傷付きもする。冷酷無比なのは取り繕った仮面で、本来は誰よりも情の厚い、やさしい男なのかも知れない。そんな思いまでもがジリジリと湧き上がる。昨夜、倫周に聞かされた昔の経緯も手伝ってか、ひどく懐かしい感覚を覚えるのも不思議だった。 「――お前らが拾ってくれたのか?」 「……え!? あ、えっと……そうです……。一昨日、便所の洗面台のとこに置いてあったんで……」 「そうか。助かった」  想像し得ない素直な礼の言葉までもが飛び出す始末に、驚きで目が白黒泳いでしまいそうだ。  そんなことを他所に、丸二日ぶりで手にするそれを見つめる氷川の瞳は、それこそ似合わない程に切なげに細められていて、心から安堵した様子が傍目からでもはっきりと分かるくらいだった。それはまるで愛しい者を手中に取り戻したとでもいわんばかりにも感じられ、とにかく見たこともないようなやさしい眼差しを細める氷川の様子に、それを手渡したばかりの紫苑も遼平も驚きのあまり立ち尽くすのみだった。  それこそ彼の『素』の部分を垣間見たような気にさせられて、次の言葉が出てこなくなる。

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