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第68話

 二十年前に『鐘崎遼二』が見つけて、『一之宮紫月』が氷川に贈ったという黒革の手帳――  おそらくは今、氷川が手にしているのがそれなのだろう。大事そうに見つめ続ける彼の視線は、手帳という物体を通して、かの友人らに向けられているのだろうことが、聞かずとも理解できた。  と同時に、急に頭の片隅でざわめき出した奇妙な雑踏の音に、目の前がグラリと揺らぐような感覚に襲われて、紫苑は思わずギュッと拳を握り締めた。  そうでもしていないと意識を持っていかれそうで怖い、咄嗟にそう思えたのだ。拳に力を込めて、ついでに唇も噛み締める勢いで、何とかその雑音に引きずられないようにと神経を集中させる。  だがそんな抵抗も長くは続かなかった。  遠く近く、次第に大きさを増しながら頭の中に巡り出したのは、聞き覚えのあるような声と楽しげな会話だ。  親しみを覚える誰かが、自分のすぐ脇で寄り添うようにしながら話し掛けてくる―― 『なあ、おい見ろよコレ!』 『何――? これって手帳? うわ、すっげー高えー!』 『な、こんなのさ、氷川の奴がサリゲに(さり気なく)持ってそうじゃね?』 『はあ? なんで氷川よ?』 『だってあいつん家ってマフィアとかっつってたじゃん? 今頃、香港あたりですっげーオシャレなスーツなんか着てさ、高級車にでも乗ってそうとか思ってよ』 『お前、それって映画の見過ぎじゃん?』 『けど、あいつならそーゆー世界も嫌味なく似合いそうじゃね?』 『あー、まあ……言えてる。そんでこの手帳ね。確かに似合いそうっちゃ似合いそうだな? あいつ、気障野郎だしさぁ。クールに脚なんか組んでパラパラーとかめくったりしてそう』 『だろ、だろ?』 『それよかどっかで茶でもしねえ? 喉乾いちまった』 『いいぜ! ならそこの自販機でソーダでも買うか?』 『はあー!? シケたこと抜かしてんじゃねえよ! それこそ氷川なら高級ホテルのラウンジで優雅にティータイムでしょ?』 『はは、違えねえなぁ! あー、あいつ今頃何してっかなあ? 氷川くーん、今から自家用ジェットで飛んできて、ホテルで茶ー、奢ってくんねえ?』 『お、いいねいいね! 氷川君カモーン、ってか?』 『仕方ねえ。自販機やめて、そこのファーストフード店で奮発すっか!』 『はあ? それ、奮発って言わね!』  見たことのあるどこかの街角のショーウィンドウにへばり付き、額と額をぶつけるようにしながら笑い合う。確かに知っていたような気がする会話が脳裏を巡り、ざわざわと心の深い部分を揺さぶって止まない。 『な、そっちのアイスティーもちょっと飲まして』 『ああ? てめ、すぐそーやってヒトのもん欲しがるし!』 『いいじゃん。俺のメロンソーダも半分やるからさー』 『……ったく! しょーがねーなぁ……』 『まあ、そう文句言うなって!』  グイッと肩先を抱かれたと思ったら、そのまま身体ごと引き寄せられて、互いのソフトドリンクに差し込まれたストローを突っ付き合うように顔と顔とを近付け合う。  コツンとおでこを合わせ、照れ隠しのようにニヤッと笑ったクセのある瞳が、懐っこくこちらを見つめていた。  あれはいつだったか。もうずっと昔の、遠い初夏の日――  若葉が青葉に変わる頃の午後の公園の片隅で、ファーストフード店で買ったドリンクを交換して飲んだ。  視線をやった先の通りの向こうには、ついさっきまで覗いていた『黒い革の手帳』が飾られていたスタンディングショップのショーウィンドウが見える。  大きな樹の根元に置かれたベンチに腰掛けて、人目から死角になるのをいいことに、戯れる程度のキスを仕掛けられたのはこの直後だ。

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