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第69話

『バカッ! 急に何さらすんだって!』 『いいじゃね、ちょっとくらい。ココ、誰にも見られねえし』 『そーゆー問題じゃねえって!』 『んじゃ、堂々と”そーゆーことできるトコ”に行くか……?』 『はぁ!? てめ、何急に……ドリンク代はケチるくせに、そーゆーことには惜しみねえってさ……』 『そーゆーことの為にドリンク代を削ってんのよ! ケチってるわけじゃねー!』  半ばふてくされつつも照れたように口角をゆるめた。ベンチから立ち上がる彼の横顔にゆらゆらと葉影が映っていたこの場面を、確かに知っている気がした。 『おい、そろそろ行くぜ』 『――は? ちょっ、待てよ! せっかちなんだよ、てめえは!』 『そりゃー、お前! これからすること想像したら、せっかちにもなるっしょ?』 『……っの、スケベ野郎が……! おいこら、待てって! 遼二!』  待てって、遼二――  そう叫んだのは自分だ。  間違いない。この場面をはっきりと覚えている。  それに対して彼は何と答えたのだったか。  頭の片隅でこもっているその声を思い出そうと、必死に記憶を追う。確か―― 『トれえぞ! 早く来いって!』  そうだ。微笑いながらそう言った。後方で、飲み終わったドリンクを二つ分抱えてワタワタとしながらゴミ箱を探していた自分に、笑いながら手を差し出した。  そんな彼の横顔に、傾き出した午後の陽がキラキラと照り付けていて――  陽射しがまぶしくて、その笑顔もまぶしくて、思わずドキリと胸が熱くなったのを覚えている。 『遅えぞ紫月。早く来い』  ほら、早く! 紫月――  持て余していた空の紙コップをヒョイとかすめるように受け取って、遠目に見えるゴミ箱までの距離を軽々と走っていく後ろ姿。長いストライドにも心拍数が加速する。  ああ、そうだ。この後ろ姿をいつも見ていた。  いつの時でもこの背中を見つめながら歩くのが心地良かったんだ。  そんな彼の後を追って、人目を(はば)かるように狭い路地を歩き、二人だけになれる空間に辿り着けば、共にホッと小さな溜め息を落とし合う。間髪入れずに抱き締められれば、既に視界に入り切らない程の位置で欲情まじりのとろけた視線がこちらを見つめていた。 『……って、ちょっ……シャワーくらい浴びさせろって……!』 『いいよ、そんなん。時間勿体ねえし』 『……そーゆー問題じゃねえって……おい、遼二ッ』 『お前の匂い嗅ぎてえのよ……シャワーなんかで消さねえ方が燃える……』 『バッ……ちょっ……!』  ふと目をやれば、決して豪華とはいえないありふれたホテルの壁紙が視界をよぎり、大して広くもないベッドの上にもつれるように倒れ込んでは、シーツがあっという間に乱されていった。  少し厚みのある形のいい唇に首筋を撫でられ、愛しむように髪を掻き上げてくるのは、長くてしっかりとした関節の指先だ。 『……な、風呂なんか後でいいだろ……?』  シャワーを浴びたいといったこちらの意向を少しは気に掛けているのか、窺うように問う声は低くて艶っぽくて、そして少し逸っていた。 『後じゃヤダっつったって聞かねえんだろが……』  憎まれ口を叩くのは、ただの照れ隠しだとお互いに分かり切っている。流されるように身を委ね、次第に激しく濃く絡み付いてくる愛撫に、自らも彼の服に手を伸ばしてくつろげた。  素肌をむさぼり、濡れた口付けを交わし、欲情の吐息を絡め合う。狭い部屋の壁に淫らな嬌声が籠った音で立ち込める――  そんな残像が脳裏を過ぎった瞬間に、紫苑はハッとしたように瞳を見開いた。と同時に昨夜、自らを抱こうとした男の顔が脳裏にジワジワと広がってくるのを感じて、思わず心臓辺りに冷たい何かが横切ったような感覚に、軽い身震いが背筋を撫でた。  違う。俺は遼二なんて知らない。  知っているのは遼平だけだ。  遼二なんて名前を呼んだこともないはずだ。紫月なんて知らないはずだ。  そう、俺は紫月なんて名前じゃない――!

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