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第70話

 何度も何度も胸の中でそう繰り返し、交叉する記憶を振り払う。  堪らずに、紫苑は思い切って氷川の前に歩み出ると、己を翻弄する奇妙な残像を断ち切るかのように言い放った。 「氷川さん、悪りィけど……俺、やっぱ……あんたンとこには居らんない……!」  絞り出すようにそう告げられた言葉に、その場にいた誰もが驚いたように彼を見つめた。隣に立つ遼平は『言っちまった!』というような表情で、だがしかしそれも想定の内だというように、特には何も反論めいたことを口にしない。  経緯が全く理解できないでいるらしい帝斗は無論のこと、倫周はもうとにかく驚きを通り越した衝撃の表情を隠せないようだ。氷川だけが無言のままで、今まで手帳に向けていた穏やかな視線をチラリと動かした。  じっとこちらを見据えるその瞳の中に、今の今まであったはずのやさしさやあたたかさは既に微塵も垣間見られない。そこにはいつものクールな無表情があるだけだ。  そんな変貌ぶりも引き金となってか、紫苑は再度胸ポケットをまさぐると、一枚の写真を取り出して、思い切ったように氷川の前へと差し出した。  春まだ浅い河川敷を背に、懐かしい学ラン姿でこちらを見つめている二人の男の立ち姿――  それを目にするなり、さすがに氷川の顔色が変わったのが分かった。一瞬、驚いたように瞳を見開き、だがすぐにどうしてこの写真を持っているのかという察しが付いたようで、みるみると普段のポーカーフェイスに戻ってしまう。どうせ拾った手帳の中身を無断で引っくり返している内に、挟んであったそれを見付けたのだろう。想像に容易いことだといわんばかりに、小さな溜息まで漏らすおまけ付きだ。  そんな態度に煽られるように、紫苑は喉元まで出掛かりながらも僅かに迷って口にしなかった言葉を抑え切れなかった。 「俺は……紫月じゃない。だからあんたの期待には応えらんねえから……!」  その言葉を耳にした瞬間、僅かに眉根を寄せた氷川が、冷たい無表情のままでジロリと紫苑を見やった。 「――言いてえことはそれだけか」  落ち着き払った態度で間髪入れずにそう返されて、紫苑は激情のままに声を荒げた。 「……っ、そうだよ……! 俺は紫月じゃねえし、こいつだって……遼二なんて奴じゃない! 俺たちはあんたらの思ってる生まれ変わりなんかじゃねえんだっ――!」 「それが辞めたい理由か」 「……っああ、そうだよ……どうせここに居たってアンタの期待には応えられそうもねえし……第一、俺らがその写真の二人にそっくりだってだけの理由でスカウトされたんなら、ここに居る資格だって……ねえじゃんよ」  語尾にいくに従って、僅かに消極的に声音を曇らせながら紫苑は言った。  しばしの間、沈黙の重苦しい空気が部屋の中を押し包む。  『辞めていい』とも『悪い』とも、いつまで経っても欲しい返事が氷川から返ってこないことに焦れた紫苑は、苦々しく唇を噛み締めながら、諦めたように(きびす)を返した。 「……お世話になりました」  そんな気持ちのままに、そっぽを向きながらもペコリと儀礼的に頭だけを下げると、 「行こう――」  隣にいた遼平の腕に縋り付くようにして彼を伴い、部屋を出て行こうと背を向けた。そんな成り行きに一等焦ったのは、他ならぬ倫周だ。 「ちょっと待って……! 待ってよ紫苑君! 遼平君も……っ」  もともとテノールの掛かった高めの声を裏返す勢いでそう叫び、引き止める。倫周の声音からは、こんな事態になってしまったのもすべて自分のせいだという呵責の念が痛々しいくらいに滲み出ていて、そんな様子に扉の一歩手前まで来てさすがに紫苑は歩をとめた。 「別に……あんたのせいじゃねえから」  押し殺したようにそう呟く紫苑の声は僅かに震えていた。

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