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第73話

 まるで仔犬が散歩に飛び出して行った後のような静けさが戻ってきた室内で、帝斗はホッとしたように小さな溜息を漏らすと、窓辺に佇みながら二本目の煙草をくゆらしている氷川の隣へと歩を進めた。 「まったく、どいつもこいつも世話が焼けて仕方のないことだよ」  辛口の台詞とは裏腹に、穏やかな表情でウォーターフロントを見つめる帝斗を横目に見やりながら、氷川もまた煙を吐き出したばかりの唇に薄い笑みを浮かべて見せた。格別には言葉にしないが、その通りだと言わんばかりの態度に、帝斗はまたしてもフッと口角を上げると、 「お前さんも含めてだよ」  と、少々呆れ気味で、突っけんどんにそう言い放った。 「――は、相変わらず遠慮のかけらもねえ毒舌だな」  そう返す氷川の言葉もまた辛口だったが、やはりそれとは裏腹に穏やかな笑みをたずさえながら瞳を細めてみせる。そんな態度につい堪え切れず、帝斗は思わず「プッ」と声に出して噴き出したのだった。お前さんももう少し素直になれよ――と、そう言いたい言葉を呑み込んで微笑う。何も言わずとも氷川がそんな気持ちを重々理解しているだろうことを知っているからだ。  ただ隣にこうしているだけで互いの気持ちが分かるのだ。しばし無言のままで、二人肩を並べたまま、波間を跳ねてきらめく眩しい陽射しを見つめていた。  そんな光景が橙色に染まり、やがて宵闇を連れてくる頃――  尾行を続けていた倫周から今夜は川崎の繁華街にあるビジネスホテルで一晩を明かすことになりそうだと、帝斗の元にそんな報告が入ったのは宵の蒼が漆黒へと移り変わる夜の帳が下り始めた時分のことだった。 「一先ず安心したよ。何せラブホテルに入られたらどうしようって思ってたからね。こっちは一人だし、さすがにラブホは入りづらいでしょ?」  受話器の向こうで脳天気な内容を比較的真剣に訴えてくる様子に、帝斗はクスッと笑いを抑えながらも、これからの動向を思い巡らせていた。 「帝斗? あ、それじゃ……そろそろ切るね。ここ、案外壁が薄いっていうか……隣の音が筒抜けなんだ。今、シャワーを閉める音がしたからお風呂から出てきちゃう! 今夜はとりあえず何処かに出掛ける様子はなさそうだし。また何かあったら電話するね!」 「何だい、お前? 隣の部屋を取ったのかい?」  少々呆れ気味でそう訊けば、「だってその方が音も拾えて便利かと思って」などと、これまた真剣に言ってよこす。普通は斜向かいとか、通りを挟んだ位置などで部屋や入り口の様子を窺えるのがベターなのではとも思ったが、まあここは彼に任せてやることにした。 「それじゃ、少ししたら見張りを応援にやるから、お前も今の内に眠っておきなさい」  倫周が報告してきたホテルの出入り口に人員を配備しておけば、彼も安心して仮眠を取ることができるようにとの配慮だ。張り切っている彼の気持ちも尊重して、朝になればまた交代をさせるからと告げて通話を終えた。  一見、のどかで冒険気分のこの帳が明けた後、衝撃の事態が待ち受けているなどと、この時の誰もが想像し得ずに――  静けさを装ったままで、刻一刻と夜は更けていった。 ◇    ◇    ◇

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