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第100話 二十年目の奇跡

――未明を過ぎ、東の空が白々とし始めていた。 [手は尽くしました。手術自体は成功したと言えます。……あとは、遼平君の生命力を信じるしか……]  鄧のその言葉に氷川の表情が不安げに揺れた。 [一両日中に彼の意識が戻ってくれれば……今はそれを祈るしかありません]  つまりは手術によって命は取り留めたものの、最悪の場合、このまま植物状態ということも有り得るという意味なのか、訊かずともそれが理解できた氷川の顔が辛く歪む。  この鄧とて、最善を尽くしてくれたのは重々承知している。あとは遼平の生命力次第というのも、頭では理解できる。今はただただ信じて待つしかないのだ。  氷川をはじめ、ずっと寝ずに手術室の前で付き添っていた帝斗も倫周も、誰もが同じ不安と苦渋を抑えながら、一心に祈るのみであった。  ふと、遼平の隣の部屋の扉が開かれた音に気付き、一斉にそちらを振り返ると、そこには手当ての麻酔から覚めた紫苑が立っていた。遼平程の致命傷は無かったにしろ、彼とて無数の傷の治療が済んだばかりの、その身体の方々に包帯が施された痛々しい姿だ。だが、そんなものは気にも留めずといった様子で、扉に寄り掛かるようにしながらも、気持ちだけは一心に何かを捜しているといったふうにしている。おぼつかない足元で、何度も転びそうになりながらも壁伝いに歩を進め、だがその視線はどこを見るともなしにぼんやりとしていた。 「紫苑君……! 気が付いたのかい?」  まだ寝てなきゃダメだよ――その言葉を呑み込んで帝斗と倫周がすかさずその両脇を支えるように駆け寄る。 「遼平……どこ……? あいつんところへ……行く……んだ。遼平ん……とこへ……」 「大丈夫だよ、遼平君の手術は無事に済んだんだよ。今、彼はまだとても大切な時だからね、一緒に待とうな?」 「ホント……? あいつ、だいじょうぶ……なの?」 「ああ、ああ大丈夫だ。命は取り留めたよ」 「会いたい……遼平に……あいつの傍にいたい……」  一通り返答はするものの、やはり紫苑の視線は定まらず、会話も届いているのかいないのかという程に呆然としたままだ。ともすれば、気が触れてしまっているかのようにも思えて、帝斗と倫周は焦燥に瞳を歪めた。 「分かった、一緒に遼平のところへ行こう」  そう言ったのは氷川だった。  当然、まだ面会などできる状況ではないのは承知の上だ。だが少しでも彼ら二人を離しておくことがためらわれて、氷川は紫苑の手を取った。 ◇    ◇    ◇  病室に着くと、紫苑は格別の感情も見せないまま、ベッドに横たわって眠った状態の遼平の傍へと歩み寄った。黙ってその傍らに腰掛けると、まるでその胸元に顔を埋めるようにして彼の身体にしがみ付く。白い掛け布団の上で何度も頬をすり寄せ、時折、「遼平、遼平」と無意識のように名をつぶやく。つい先刻、事故直後の倉庫で見せた激情は全く見られないものの、そんな様がかえって彼の精神状態がおかしくなってしまっていることを示唆しているようにも思えて、氷川らの不安を煽った。  夜が明けて、陽が昇り、そしてその陽が西に傾き出しても、紫苑は遼平の傍を離れようとはしなかった。  ただただそこに腰掛けて、呆然と彼の眠る顔を見つめ、そしてまた時折シーツの上で頬ずりを繰り返しては、その名を呼ぶ。まるで壊れた機械人形のように繰り返し繰り返し、感情のないような声が室内にこだまする。夜が来て、月が昇り、そしてまたその月が白く色を変え西の空へと消えようとしても、依然、何も変わらない。  手術から後、一両日がとうに過ぎ、三日目の夜が更けようとしていた。

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