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第109話

 今までは年齢も立場も随分上という感覚が強く、何だか近寄り難かった氷川が、急に近しい存在になったようで、それは何だかこそばゆくもあり、そして何よりも不思議な程に安堵感を感じさせてくれるものでもあった。そんな感覚が嬉しくて、遼平は訳もなく幸福感に包まれるのを感じていた。 「氷川さん、俺……いや、俺ら、がんばります! これからもよろしくお願いします」  真摯な言葉や態度が、やはり”遼二”とはどこか異なり、彼が”遼平”なのだということが改めて幸せに感じられる。何だか心の中で宝物が倍増したような幸福感をひしひしと感じていた。 「とにかく紫苑に知らせてやらなきゃ。ちょっと待ってろな?」  氷川はまたひとたび、とびきりの笑顔でそう言うと、急ぎ部屋を出て行った。紫苑が休んでいるのはすぐ隣の部屋だ。今は帝斗と倫周が付き添っているはずだ。  昨夜から少し寝かせたので、もう起こしても差し障りはないだろうと思い、逸る気持ちを抑えて部屋を出た――その時だ。  廊下の壁に背をもたれた紫苑本人が既にそこにいるのに気が付いて、氷川はハッと目を見張った。 「紫苑……起きてたのか! 今、知らせに行こうと思ってたんだ。遼平の意識が戻って……」  そう言い掛けながら、語尾にいくに従って言葉が出なくなる――紫苑の様子に違和感を感じたからだ。  遼平の意識が戻ったことを告げても格別には驚いた様子もなく、また、飛び上がって喜ぶわけでもない。壁にもたれながら落ち着いた調子で、よくよく見ればその口元には僅かだが笑みさえ伴っているように感じられる。それも、単なる笑みではなく、随分と余裕を感じさせる雰囲気だ。まるで、遼平の意識が戻ったことを既に知っているとでも言いたげなのだ。  そんな様が変に思えて、氷川は眉根を寄せた。 「紫苑……? おい……」  もしかしたらまだ精神状態が不安定なのだろうか、ふとそんな焦燥感が過る。だが、そうではなかった。  もたれた背をゆっくりと壁から離し、こちらに向かって一歩、二歩と距離を詰める仕草に、いつか何処かで知っていたような懐かしさがこみ上げたからだ。まばゆい程の朝陽の逆光でその表情は掴みづらいが、とある心当たりがよぎり、一気に心拍数が加速した。 「紫苑……?」  彼の様子を覗き込むように少し顔を傾げたその時だった。 ――――!  突如、すっぽりと胸元に収まるかのように紫苑が抱き付いて来たのに驚かされた。 「おい……どした? 紫苑?」  自分よりも僅かに背の低い紫苑のやわらかな髪が頬に当たり、戸惑いながらも視線をやれば、朝陽に照らし出されて金糸の束のように見える髪がふわふわと揺れている。まるで胸元に顔を埋めるようにしてしっかりとしがみ付き、背中に回された彼の両腕がぎゅっと力を込めて自らを抱き締めてくる。 「ありがとな、氷川」  極め付けのその言葉を聞いた瞬間に、驚きよりも先に、思わず涙腺にツンとくるような刺激を覚えた。 「ま……さか……お前……?」  つい今しがた、彼の相棒の鐘崎遼二に会ったばかりだからなのか、今、自分の胸元に顔を埋めて寄こすのが”一之宮紫月”なのだということを本能が悟ったのだ。  無意識に、氷川は腕の中の彼を抱き締め返していた。 「一之宮……だな? 本当に……お前……」 「ああ――」 「いっ……」  思わずガバッと抱擁を振り解き、逸る気持ちのままに腕の中の彼の顔を覗き込んだ。 「今……たった今、カネに会ったばかりだ……」 「ああ、知ってる」  大きな瞳を僅かに細めて穏やかに笑う。 「……ほんとに……こんな……」  未だに首を傾げて彼の顔を覗き込んだ状態のまま、視線を外せず、瞬きさえままならずといった調子で、氷川は目の前の存在にしばし言葉を失ってしまった。 「……なん……て日だ……! 俺は……こんな……こんなことって……」  懐かしさも悲しみも苦しみも切なさも、二十年分の万感極まって、とてもじゃないが言葉になどなってくれない。 ――もう思い残すことなどない。  そんな気持ちを代弁するかのように潤み出した涙を隠すことも拭うことも忘れて、しばらくはそのまま動くことさえできなかった。

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