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第110話

「バッカ……泣くヤツがあるかよ。お前らしくもねえ」  言葉とは裏腹に、とてつもなくやわらかな笑みで『彼』は言った。それと共に、あふれてとまらない涙を拭ってくれるかのように形のいい指先が触れ、その感覚はひやりと冷たくて、早春の朝の冷気を感じさせる。身体は硬直したまま、ようやくのことで視線だけを動かし、氷川は目の前の男を見つめた。 「まだ早えぜ、氷川」 (え――?) 「今のお前、もうこの世に思い残すことはねえってなツラしてる」  クスクスとからかうように微笑まれた口元から懐かしい言い回しが飛び出して、心臓が鷲掴みにされる思いでいた。紫苑よりも落ち着きを伴った低めの声音と、独特のクセのある言い回し――間違いなく目の前の彼は一之宮紫月だ。 「どうしたよ? 遼二とは話せたんだろ?」  なら何故、自分を見てそんなにも驚いているんだとでも言わんばかりだ。氷川は濡れた瞳をグイと拭い、鼻をすすりながら、やっとのことで相槌を口にした。 「……もちろん……話したさ。だからこそだ。カネだけじゃなく……お前とまでこうして会えるだなんて思ってもなかった」 「だよな?」  目の前の彼はまたひとたびやわらかに笑い、そしてこう続けた。 「遼二の野郎がどうしてもって聞かねえからよ。今、遼平と紫苑に手を差し伸べてやらなきゃ、俺らの二の舞になっちまうっつってさ。天国のじいさん連中にお咎め食らうの覚悟で抜け出して来たんだ。……っつっても、こんなこと――ああそうですかって簡単には信じらんねえような話だわな?」  そう言って笑う。彼の口から出るひと言ひと言が懐かしさで全身を埋め尽くすようだ。嬉しくて、幸せで堪らなくて、言いようのない感動で背筋がゾクゾクと震えるようだった。 「なぁ、一之宮……」 「ん?」 「俺は今まで神様なんてのは信じたことなかったが……いや、それ以前に神様がいるとかいねえとか、そんなことは考えたこともなかったって方が正しいか、けど今なら信じられそうだぜ。こんな幸福はねえ――何だかもう……この世のすべてにありがとうって叫びてえ気分だ」 「はは、お前がそんなこと言うなんてさ」 「ガラじゃねえってか?」 「ああ。ぜってー拝めねえだろうってくらいの、お前の違った一面を見られて得した気分かな?」  悪戯そうに微笑いながらそう言う彼に、氷川はとびきり瞳を細めて微笑んだ。それは誰にも見せたことがないようなやさしい表情で、おそらくは氷川本人でさえ、誰かに対して自身がこんなにも穏やかな微笑みを向けられるなど、自覚したこともなかったのでは――と思わせる程のものだった。 「幸せそうで安心したぜ、一之宮」  やっぱりお前はカネの傍で微笑ってるのが一番合ってる、そんな思いのままに、今一度彼をすっぽりと包み込むように抱き寄せた。 「こんなふうにしてると、カネにまたヤキモチ焼かれるかもな?」  氷川は楽しそうに言いながら抱擁を緩めると、 「果し合いならいつでも受けて立つ。またいつか――あの時みたいに三人で勝負しようぜってカネにそう言っとけ」  未だ鼻をすすりながら、とびきりはにかんだ笑顔で微笑んだ。 「ああ、ちゃんと伝えとくぜ。氷川――ほんとにありがとな! 昔も今もお前には助けられてばっかりでよ、お前に会えてほんとに嬉しいっつか、感謝してる。ほんとに……何度ありがとうっつっても足んねえくらい」 「ああ。ああ、どういたしましてだ。カネにも頼まれたが、これからも遼平と紫苑のことはガッツリ面倒見てやるつもりだから、もっともっと感謝してくれよ?」 「あ……ははは! そうだな、よろしく頼むぜ!」 「ああ、任せろ」  とどまるところを知らない楽しい触れ合いに後ろ髪を引かれつつも、氷川はハタとそこで会話を止めると、今一度、目の前の彼を見つめた。

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