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第111話 新しい季節へ

「さあ、遼平が待ってる。カネもきっとヤキモキしてお前の帰りを待ってるだろうよ?」  そろそろ行けというように、うながした。その思いに応えるように、一之宮紫月は今一度大きな懐に顔を埋めると、名残りを惜しむかのように瞳を閉じる。 「じゃ、またな氷川――」  抱擁を解き、すれ違いざまにポンと一度肩を叩き、彼にとって最愛の男の待つ病室へと一歩を踏み出す。まぶしい朝陽を背中いっぱいに浴びた彼は、その光の中に吸い込まれるように消えて行った。  そして、遼平が待つ隣の部屋の扉を開ける間際に、こちらを振り返ってはペコリと頭を下げてみせた。その仕草に、今度は『一之宮紫月』ではなく『紫苑』を感じて、氷川はその一部始終を心に焼き付ける思いで見つめていた。  ふと、背後に気配を感じて振り返ると、そこには同じように感極まった表情でいる帝斗と倫周が佇んでいた。 「何て奇跡だろうね? こんな幸せな日が来るなんてね」  ああ、そうか。彼らもきっと『紫月』と会えたのだろう。 「そうだな。本当に――すげえ」  三人は互いを見つめ合い、至福を分かち合うように誰からともなく手を取り合った。 ◇    ◇    ◇  それから十日が経つ頃には、遼平の怪我もだいぶ癒えて、順調に快方へと向かっていた。すっかり自力でベッドからも起き上がれるようになって、ここ数日は新曲の譜面を肌身離さずといった調子で、紫苑と共に曲の解釈などを話し合ったりと忙しい。氷川から提供された例のバラードだ。  早く歌いたくて仕方がない、そんなふうに逸る気持ちが怪我の快復を手助けしているかのようだった。また、紫苑の方も遼平に同じく意欲的で、編曲はこうしたらどうだろうかとか、このフレーズの場面ではこの楽器を使ってみたいといったように、二人共に譜面と向き合いながら、いつになく張り切って過ごしていた。  その間、遼平に輸血をした経緯からか、桃稜学園の春日野が度々二人を訪ねては、顔を出すようになっていた。高校三年の卒業間近のこの時期、残すところの授業もあまりないのか、午後になるとひょっこりとやって来ては、遼平、紫苑と共にたわいもない会話に明け暮れる。時には一緒に譜面を覗いたりしながら、至極楽しげだ。そんな様子を傍目に、帝斗と倫周はうれしそうに頷き合うのだった。  遼平と紫苑は無論のこと、この二人に春日野が加わって和気藹々している様を見ていると、何故だか昔の遼二と紫月、そして氷川を交えた三人の姿とイメージが重なるような気がするのだ。確かに春日野は氷川とほぼ同じくらいの長身の上に、何をおいても桃稜生だ。放課後に学園から直行で訪ねて来ることもあり、その制服を見ただけでも懐かしさがこみ上げる。彼の寡黙で硬派そうな雰囲気をはじめ、端正だが無表情な顔付きと、また、漆黒という程に印象的な髪色ひとつをとってみても、よくよく氷川とイメージが似ていると思えるのだ。まるで二十年前の遼二と紫月、氷川らが時を超えて蘇ったかのように思えて、帝斗と倫周は格別な思いで今の彼らに過ぎし日を重ねていた。  そして、そんな思いは当の本人たちにとっても同じだったといえる。  医師の鄧から、まだ日中の半分をベッド上の背もたれに寄り掛かって過ごす程度の安静を言い渡されている遼平を取り囲みながら、たわいもない会話で盛り上がっている自分たちが、ふとした瞬間に懐かしく思えたりしていた。特に、輸血という絆で結ばれたこともあってか、遼平と春日野の間には、まるで同じ青春を過ごしてきた仲間のような雰囲気が通っているのだ。そんな二人を横目に、紫苑は三人でいるこの瞬間が、何とも言いようのない安堵感をもたらしてくれるように思えていた。  そもそも、少し前までは因縁関係と言われた隣校の敵同士の間柄だ。かくいう、この春日野とは直接やり合ったこともなければ、街中で偶然見掛けることはあっても、取り立てて勘に障るわけでもなかったというのが本当のところだった。

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