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After Story - I was born to meet you -

 それは梅雨入り宣言が発表されて間もなくの、とある晩のことだった。  氷川は帝斗と共に、例の花時計広場が見渡せる駅前のレストランを訪れていた。支配人から新しいスイーツの試作品が出来上がったので見に来て欲しいと連絡を受けたからだ。  このレストランのメニューは、甘党だった一之宮紫月の為にと特にスイーツには力を入れてきたので、季節毎に新作を追加するのが恒例となっている。氷川自身はどちらかといえば甘いものが大好物というわけでもないのだが、こうして新作ができる度に試食にも参加しているのである。帝斗にも意見をもらいながら数種のデザートを吟味し終えた頃には、既に二十五時を回っていた。まあ、いつも閉店後のお客が引けた時間から始めるから、これでも早い方である。  支配人に見送られて店を出ると、既に迎えの車が待っていた。目の前の花時計広場には季節の花である紫陽花が満開を迎えていて、紫色のボンボリの花々が見事である。 「額紫陽花か。今が見頃だねえ」  帝斗の言葉にふと広場に目をやった――その時だ。 「あれ、紫苑じゃねえか?」  広場のベンチに寄り掛かるように突っ伏している一人の男の姿に、氷川は瞳をしかめながらそう言った。 「紫苑だって?」  帝斗も驚いたように広場を見やる。側によってよくよく見ないことには何とも言えないが、確かに雰囲気は紫苑に似ているふうに感じられた。だが、どうにも様子がおかしい。彼はたった一人だし、あまり具合が良さそうには見えず、まるで倒れ込むかのような感じでベンチにうずくまっているようなのだ。 「何だ、あいつ……。酔っ払ってでもいるのか?」 「まさか……! 第一、遼平の姿が見えないじゃない。彼一人で真夜中にあんなところで……何かおかしくないかい?」  氷川と帝斗は少々慌てたように彼の元へと駆け寄った。  紫苑も遼平も実家はこの近くだから、ここいら近辺に来ていたとしても不思議はないのだが、それにしても妙である。大概は遼平や春日野、徳永らと一緒にいることが多いというのに、一人でいるというのも気に掛かる。 「おい、紫苑か――? こんなところで何を――」側へ寄って彼の肩に手を掛け、揺り起こすようにしながらその場へしゃがみ込んで、氷川は眉根を寄せた。眠ってしまっているのか、ピクリとも動かないが、どうやら息はしているようだ。 「何だ、人違いじゃねえか――」  パッと見、紫苑に感じは似ているが、近くで見ると全くの別人である。 「おい、どこか具合でも悪いのか? こんなところで何をしている」  少し声高に耳元でそう尋ねると、男はようやくと瞳を見開いた。  ゆっくりと顔を上げ、視線が合う――その瞬間――心臓のど真ん中を射貫かれるような衝撃が氷川を襲った。  珍しい濃灰色の大きな瞳がキラキラと輝いている。そこに写っているのは花時計をライトアップしている灯か、それとも月明りか――ゆるい天然癖毛ふうのミディアムショートの髪が無造作に顔周りを覆っている。顔の造りといい、髪型といい、全体的な雰囲気は紫苑を思わせないでもないが、この男の方が彼よりは若干華奢だ。決定的に違うのは髪色――紫苑の薄茶色に対して、この男のは深いブルネットが彫りの深い端正な顔立ちをより引き立ててもいる。  しばし会話をすることも忘れて、氷川は男に見入ってしまった。 「キミ、こんな時間にこんなところで何をしているんだい? 見たところあまり具合の良さそうにも見えないけれど、大丈夫かい?」  頭上からの帝斗の声で、ようやくと我に返った。と同時に、男の方も意識がはっきりとし出したのか、身構えるようにして飛び起きた。その瞬間、 「……痛ぅ……ッ」  頭を抱えるようにして、男はその場にうずくまってしまった。 「おい、どうした!」  氷川は彼を抱きかかえるように、その両肩を掴んだ。その瞬間、彼の掌に血の痕を見つけて、驚いてその手を取った。 「血がでてるじゃねえか! どこか怪我でもしているのか!?」  焦ったような声を上げた氷川に、男は苦笑気味ながらもようやくと口を開いた。 「平気……大したことねえ……よ。さっきぶん殴られた時に割れた窓ガラスで切っちまっただけ……」 「殴られただとッ!? 誰にだ」 「ん、……勤め先の上役……っての? ちょっと言うこと聞かなかったら逆ギレしやがって……挙げ句は……」 「上司と揉めたわけか?」 「まあ……大雑把に言えばそんなところだけど。……ったく、冗談じゃねえよ」  殴られた箇所が痛むわけか、男は氷川の腕の中でしんどそうに身体をもたれながら苦笑する。さっきは灯りの具合でよく見えなかったが、角度を変えてよく見れば、唇の端も切れているのかそこからも薄らと血が滲んでいるのが分かった。 「顔を殴られたのか? 他には?」 「……分かんねえ。何発か殴られ蹴られしたけど、よく覚えてねえよ」 「――とにかく、手当てが必要だな。おい、立てるか?」  レストランへ戻れば横になれる部屋もある。しかも氷川には側近と共に常に医術の心得があるトウが行動を共にしているので、すぐに彼に診せよう。そう思って男の腕を自らの肩に回して担ぎ上げた。 「……世話掛けちまって……申し訳……な……ッ痛」 「大丈夫か!? どこか痛むのか?」 「いや……平気……それより迷惑掛けて……悪いなって……」 「そんなことは気にするな」  帝斗に言って、車で待っている側近の李とトウに知らせ、レストランの支配人にも裏口を開けてもらうように頼む。氷川は男に肩を貸しながら訊いた。 「お前、その格好からしてホテル勤めか何かか? 名は何という」  男の身に着けている白の洒落たワイシャツには糊が効いていて、黒のスラックスに揃いのベスト。そして、解け掛かってはいるが黒の蝶ネクタイという出で立ちからホテルのコンシェルジェか、或いはレストランのウェイターを連想させられる。だが、男の口から出てきたのは、予想に外れて全く別のものだった。 「ああ、このカッコ……? 確かにホテルマンみてえに見えるけど……ちょっと違う」  苦笑しつつも、あまり詳しいことは言いたくないわけか、男はそれきり口をつぐんでしまった。  肩を貸しながらだからよくは見えないが、横目に垣間見た苦笑い、その表情にもドキリとさせられる。整った顔立ちだからそう感じるのか、ただ薄く笑っただけのその笑顔が、何とも言いようのない奇妙な感情を炊き点けるようなのだ。ガラにもなく、氷川は戸惑っていた。  レストランへ着き、灯りの下でマジマジと彼を見れば、そんな気持ちに一気に拍車が掛かるようだった。  掘りの深く、くっきりとした二重の大きな瞳。美しい陶器のようになめらかな肌。やわらかそうな質感の髪、思わず指先で拭いたくなるような形のいい唇に、細めだが鼻梁の高い鼻筋――。  そのどれもが瞬時に心臓を鷲掴みにするようなのだ。  男の方もその大きな瞳を見開いて、驚いたようにして氷川を見つめている。 「……あの、あんた……」  明るい部屋で氷川を見た瞬間に男は何かを言い掛けようとしたが、 「白夜、手当ての準備が整ったようだよ。とりあえず彼をこっちのソファへ――」  帝斗の呼び掛けに、男はハッとし、今一度氷川を見つめながらこう呟いた。 「白夜――? じゃあ人違いか」  その様子に氷川も首を傾げる。 「俺の名だ。氷川白夜。それがどうかしたのか?」 「あ……いえ。何でもありません……」  まるで互いに引き寄せられるように見つめ合い――二人はしばし周囲の何もが目に入らないといった様子で視線を重ね合った。  側で医療箱を手に手当ての準備を進めるトウのことも、それを手伝いながら横になれるスペースを作っている側近の李のことも、そして帝斗にレストランの支配人、彼らの気配を感じれども視界には入らない。誰の所作の音さえも耳に入らない。互いの瞳に互いだけを映すかのように見つめ合う。  これが互いにとって運命の出会いであるかのように、ただただ見つめ合ったまま――  梅雨空が灼熱の太陽を待ちわびる――そんな向夏の夜の出来事だった。 - FIN - ◆後書き こちらはいずれ書きたいと思っている『春朧』の氷川の恋話です。出だしだけちょっとお目見え♪ 『春朧』長い話でしたが、ご覧くださった方、リアクションやコメントをくださった方、本当にありがとうございました<(_ _)> とても励みになりました。 このアフターストーリーの続きは、今書いている他の連載等が一段落したらまた妄想できればと思っています。 ここまでお付き合いいただきまして、本当にありがとうございました。

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