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第7話

 正道が初めてこのたかちほ食堂に来たときに着ていたカーディガンの緑を、いつでも瞼の裏に思い描けるくらい鮮明に覚えている。首の後ろ側がぞくぞくするほど好もしい色。そして正道にいちばん似合う色。    初夏といっても、もうほとんど毎日夏みたいな気温。そんな中、落とし穴みたいに訪れた妙に肌寒い日だった。晴れていたけど風がつよくて、賢一はなんとなく故郷のことを思い出していた。  木戸がからりと開いて、鈴がちりんと鳴った。その音に反応して顔を上げた賢一は、いらっしゃいませを言うのを忘れてしまった。  客は一人で入ってきた若い男だった。忘れられないくらいきれいな緑のカーディガン、ノーカラーの白いシャツ、グレーのゆったりしたパンツ。とくに色男ではないけど、黒くて細いフレームの飾り気のない眼鏡がよく似合っていた。背丈も賢一とそう変わらないけど、姿勢がいいからすらっとして見える。手には布でできたブックカバーのかかった文庫本だけ。あっけにとられたようにその若者を見つめていた賢一に、彼はあいまいな会釈のようなものをした。たかちほ食堂のキッチンは、コの字形のカウンター式で、調理の様子が客から見えるようになっている。カウンターに来てくれないかな、と思ったけど初めてきた店でカウンターにつくつわものはあんまりいない。彼も例外ではなく、奥のテーブル席を選んだ。  これが「そう」なら、今までのは一体なんだったんだ。    賢一は心臓がばくばく言うのに耐えながら、必死に包丁をにぎりしめていた。    毎週末、とはいかないまでも、「彼」はよく店に現れるようになった。決まってひとりで、手には文庫本。賢一は、泣きたくなるくらい彼が読んでる本のタイトルが知りたくてたまらなかった。それでも、彼が現れるたび壊れそうになる心臓をかかえながら涼しい顔で野菜を刻み、ハンバーグを焼き、鶏を塩麴に漬け込む日々をただ過ごしていた。    「興味がおありでしたら、ぜひ。素敵ですよ」  そんな日々が変わるきっかけは、芙季子のその言葉だった。会計時、レジに置いていたアコースティックライブのフライヤを彼が手に取ったのだ。たかちほ食堂では、月に一回、夜の通常営業を休んでイベントを行う。今月は、芙季子が動画配信サイトで見つけてほれ込んだ無名のシンガーソングライターのミニライブだ。  「―へぇ、きてみようかな」    初めてまともに声をきいた気がした。優しい声だった。  ライブの前日、店を閉めてレンジ回りの掃除をしていたら、芙季子がぴらりと目の前でチケットを振った。  「明日、ケンさん休みだったよね。悪いんだけど、キャンセル出ちゃったからライブ来てくれないかな。空席つくるのもアレだし。……なんか予定ある?」  「飲みながらハガレンの続き読もうと」  「もっと感受性豊かな時期に読んどけよハガレンは。10年遅いわ」    決まりだね、18時からね、と言って、芙季子はトイレ掃除をはじめてしまった。  あのひとほんとに来るかな、と思ったが、来たところでどうせ、悟られないように見つめることしかできない。

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