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第8話
うわーまじかよ、いるじゃん
開演15分前に店に着くと、彼はもうすでに席に着きセットリストを眺めていた。やっぱり今日も一人で来ているらしく、心底安堵する。隣にすてきな女の人なんぞいた日には、すぐにUターンしようと思っていた。アルコールが入っていると思しきグラスを手にしている。お酒飲んでる、と思うと意味もなくどきどきした。
隣の席はまだ空いている。が、ここで「よく来てくださいますよね?」などとフランクに話しかけつつずうずうしく隣席に陣取るなどという芸当ができる種族だったなら賢一の人生はもっとずっと楽だったはずだ。
カウンターで芙季子からドリンクを受け取り、そっと彼の斜め後ろの席に腰かけた。何も見ないでいると、つい清潔な香りのしそうな襟足やかたちのいい耳を凝視してしまいそうで、賢一も彼の真似をしてセットリストに眼を落とす。
「……あの、すみません」
まさか、と思って顔を上げると、彼が小さく笑みを浮かべてこちらを向いていた。内心椅子ごとひっくり返りそうになったが動揺が一切挙動に出ないのは賢一の強みだ。「はい」とだけ応じた。
「ここの、キッチンの方ですよね」
「……は、い」
さすがに声が詰まった。認識されていたとは。
「あ、突然すいません。僕、よく来るんですけど」
「わかります。きょうも、来てくれてありがとうございます。うちの店長肝いりのライブなんで、席埋まってよかった」
「あは、実はずっとナイトイベント興味あったんですけど、なかなか勇気が出なかったんですよね」
普通に会話しちゃってるよ、完全に初対面どうしのぎこちない世間話ってかんじだけど。賢一は店の照明を絞った芙季子に感謝した。普通の明かりだったら、どんなに取り繕っても耳が赤くなっているのが彼にばれていただろう。
「―はい、では、時間になりましたので始めさせていただきます。」
芙季子のアナウンスが聞こえると、キャンドルの灯が減ってさらに店内の明度が落ちた。始まるみたいですね、と彼は前を向く。胸がことことと高鳴っているのは、ライブ前どくとくの高揚感によるものだ、自分に言い聞かせ、バックヤードから緊張気味に登場してきたシンガーに拍手をおくった。
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