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 そんなに先輩に恨まれるような事をした記憶はない。俺はじりじりと後ずさって、先輩が何かを言い出したのを聞かずに扉を開けて全速力で走った。  外には普通に人がいる。いつもの風景だ。がやがやとうるさい朝の風景。俺がずっと暮らしてきた街並みだ。なのに、さっきから背中がぞわぞわして落ち着かない。なんで、どうして。 「っ!」 「美琴?」  会社から随分と走り抜けて、古びた商店街に差し掛かった時、見慣れた黒髪の背中に飛び込んで後ろから抱き着いた。すん、と匂いをかいでから長く息を吐く。 「……美琴?」 「い、狗神…っ」  狗神が振り向いて、驚いたように俺を見下ろした。その表情をみて、ぶわっと視界が歪む。 「! 美琴、どうし」 「狗神、場所を変えろ。ここは目立つ」  聞いたことのない声が聞こえて、俺はハッとした。そうだ、たぶん狗神も仕事中で、あぁ、しまったと一気に羞恥心で顔が赤くなる。 「美琴、こっち」 俺が離れるより早く手を掴んで歩き出した狗神に、おとなしくついていった。 「美琴」  そこは大きな平屋だった。古き良き日本家屋と言ったようなたたずまいの居間に、俺は狗神に抱きしめられたまま座っていた。 「狗神、それが噂の美琴?」 さっきの声だと、顔をあげると、視界に金色の髪が揺れた。 「初めまして、こんにちは。俺は柚木」 狗神と同じ着物を着て、にこりと笑う、綺麗な人だった。金髪はとても長くて、開いた瞳は紫色だ。 「美琴、何があった?」 「あ、いや、かい、会社で、」  しどろもどろになりながら説明して、狗神の表情が険しくなっていく。それと同時に金髪の――柚木さんもなんだか険しい表情になっていた。 「狗神」 「わかってる。美琴」 「え、あ、なに」 「今、俺に名前を頂戴」 「い、今?」  なんで、そんな、今?だって、狗神の話を聞いた限りじゃあそんなはいどうぞって感じで与えるものじゃないじゃないか。 「美琴」 「ちゃんと、考えるって、」 暫く考えたいって、言ったのに。 「―――――ちゃんと説明したら?彼の命を守るためなんだって。お前は説明がないんだよ」 見かねたのか、柚木さんが呆れたように狗神の頭をはたいて、俺はホッと息を吐いた。 「美琴くん、だっけ?君が言ったその神足巴は、人間じゃないよ。もしくは人間の形を模しただけの化け物だ」 「は」 「何かの理由があって狗神を恨んでいる――――のだろうけど、理由が分からない今、一番最初に狙われるのは、君だ」 「―――お、俺?」 なんで、俺はただの会社員だ。まっとうに生きてきて、仕事が恋人の、ただの、一般人なのに。 「…………だから、美琴くんは狗神と契約を交わすべきだ。名を与えて、命を守ってもらった方がいい」 「命………」  話が壮大すぎるというか、展開が急すぎて目の前の狗神の着物をぎゅっと握る。狗神が俺の手を覆うように手を添えて、小さく名前を呼ばれた。 「――名前、は、だって、狗神に言われてから考えては、いたけど………じいちゃんの名前ぐらいしか、思いつかなくて」  俺の祖父は不思議なことが大好きだった。今もし出会えたら狗神の事を気に入っただろう。感受性が豊かで、妖怪とか幽霊とかそういうものが大好きな、いつまでも少年のような、そんな人。 「お前が俺に名をくれることに意味がある」

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