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 夏本番を迎えると、木陰とはいえ暑さが身に染みてくる。 「ここにずっといるのも、辛いもんだ。溶けてしまう前に、よかったらうちに来ないか?」  額に汗を浮かべた敏彦の提案に、俊平は素直に応じる。  敏彦に導かれるように、二人連れ立って校門へと歩みを進めた。  俊平よりも敏彦の方がやや上背が高い。整った顔立ちに、筋の通った高い鼻がどこか日本人離れして見える。  少し見上げた時の、敏彦の横顔が俊平は好きだった。  校庭には、まだ生徒が行き交っていた。その中を縫うようにして、二人は校門を抜ける。  開けた道路には、黒光りした縦長の自動四輪車や和洋折衷な服装をした人々が行き交っていた。  明治から大正にかけて様変わりした町並みは、木造から鉄骨や煉瓦などを用いたものに建て替えられ、西洋化が進んでいた。  賑やかな大通りを過ぎ、脇道に逸れると木造の建物が立ち並ぶ住宅地に入る。 「着いたぞ」 敏彦が声をかけ、一軒の木造二階建ての前で足を止める。 「僕一人で住んでいるんだ。だから気兼ねする必要はない」 「……えっ?」  信じられない言葉に絶句する。普通の学生なら下宿して書生となるか、自分の家から通うかになるはずだ。  俊平も上京してきた身で、書生として親戚にお世話になっている。  まさか、一軒家に一人で住むとは只者ではない。  そこで、俊平は敏彦のことを何も知らないことに気付かされる。書物の話はよくしていたが、敏彦の身の上話はしたことがなかった。  ふと、隣りにいる敏彦に距離感を感じ、寂しい気持ちが湧き上がる。 「ほら、ぼさっとしてないで入りたまえ」  物思いに耽る俊平を促すように、敏彦は背中を押した。  複雑な気持ちを抱えたまま、俊平は「お邪魔します」と声をかけ中に上がり込む。  敏彦に連れられ、俊平は広い居間に通された。畳の香りとともに、熱気が全身を包み込む。  熱気を逃がそうと、敏彦は窓や襖を開けて回ている。 「適当に座ってくれ」  所在無さげに立ち尽くす俊平に、敏彦は声を掛けた。  学帽と詰め襟の上着を脱ぎ、シャツだけになると心なしか涼しく感じる。  ほっと息を吐き出し、俊平は丸机の前に腰を下ろす。一仕事終えた敏彦も、同じように上着を脱ぎ、向かい側に腰を下ろした。 「どうしたんだ? しけたような面して」  遠くから聞こえてくるセミの鳴き声と共に、敏彦の伺うような声が部屋に響き渡る。 「いえ……」  聞いて良いものなのか分からず、俊平は言葉をつまらせる。 「もしかして、この家に一人で住んでるからか?」 「……」  まさに図星を突かれ、俊平は視線を彷徨わせる。 「婚約者の父親が用意してくれたんだ」 「えっ……」  突拍子もない発言に、俊平は呆然とした顔で敏彦を見つめる。 「家が呉服店なんだが……僕は次男で長男が継ぐことに決まっている。それは構わないんだがな……」  敏彦の表情が曇り、一瞬沈黙が降りる。 「贔屓してもらってる資産家の主人に、僕は気に入られてしまってな。そこの娘さんと結婚しないかと縁談を持ち込まれた」  断れるはずがないことは、この時代に生まれた人間なら分かっていることだ。  『自由恋愛』と謳われるぐらい、この世の中は親の意見が絶対だ。  親同士が決めた相手と結婚するのがあたりまえで、最近では心中してしまう恋人同士も少なくはない。 「そのうえ、女しか跡取りがいないから後継者としてぜひと言われている。要は婿養子に入るわけだ。両親は大喜びだからタチが悪い」 「……いつ向こうへ?」 「大学を卒業したらすぐにでも」  沈黙が流れ、冷たい汗が背中を伝った。愕然とした気持ちが襲いかかり、目の前が真っ暗になる。  やはり自分は、敏彦に好意があるのだと痛感させられた。  寄り添い合って書物を眺める度、募っていく恋心に俊平はいつも泣きたい気持ちになった。  甘酸っぱくて幸せな気持ちと、この関係が終わってしまう恐怖と焦燥感に胸を押しつぶされそうになる。  自分に男色の気があることは、薄々気づいていた。  高等学校時代、上級生たちの悪戯に嫌悪よりも、恋心が芽生える事があった。  でも向こうはあくまでも、女の代わりぐらいにしか思っていない。いつも弄ばれて、終わってしまっていたのだから。

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