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「顔色が悪いがどうした?」 「いえ……」  怪訝そうな表情の敏彦が、這うように俊平に近づくと隣に座り直す。  距離の近さに俊平は、わずかに体を強張らせた。 「大丈夫か? 熱中症のたぐいじゃないと良いのだが」  敏彦が立ち上がり、どこかへ姿を消す。  距離が離れたことに安堵したのも束の間、敏彦がグラスを片手に戻ってくる。 「ほら、干からびる前に飲みたまえ」  俊平の傍にしゃがみ込むと、グラスを俊平の口元に近づけた。俊平の背に手が置かれ、汗で湿ったシャツを少し恥ずかしく思ってしまう。  喉が渇いていたわけではない。でも、せっかく注いで来てくれたのだからと、俊平は素直に口を付ける。  生ぬるい水が口の中に溜まり、無理やりでも喉に流し込んでいく。グラスが唇から離されると、息を吐き出す。 「すみません。ありがとうございます」  俊平は礼を述べつつ横を向く。直ぐ真横に敏彦がいることに気が付き、サッと頬が赤く染まる。  慌てて顔を逸し、思わず口元を手で抑えてしまう。  その反応に何かを感じ取ったのか、敏彦が唖然とした表情で俊平を見つめている。  ――終わった。  全身から血の気が引いていく。蒸し暑いはずの室内が、一気に温度が下がったように思えてならない。  結婚のくだり以上に、二人の関係がここで終わってしまうことに堪えてしまう。頭が真っ白になり、自然に涙が目の縁に溜まっていく。  好きだとは言ってない。でも、頭の良い敏彦のことだ。俊平のこの反応が恋心によるものだと、気づいてもおかしくないだろう。  俊平は悄然(しょうぜん)とした表情で、痛いほどの沈黙を全身に感じた。  ふと、敏彦が動く気配がする。俊平の肩に力強い掌の感触を感じ、目を見開く。あっ、と思った時には体が傾げ、柔らかい感触が側頭部に触れた。  状況が飲み込めず、俊平は顔もあげることが出来ない。  数秒経った後、抱き寄せられたのだと分かった。  敏彦の僅かな汗の匂いと、体温を感じ思わず涙がこぼれ落ちる。 「目を閉じていろ」  少し硬い声音が、直ぐ近くから聞こえてくる。  敏彦の早い鼓動を感じ、つられるように俊平の動悸も早くなる。  言われたとおり、俊平は赤くなった目元を静かに伏せた。  俊平の体が起こされ、敏彦の体が離れていく。体温と汗の匂いが消え去ると、寂しさと不安が胸の底から湧き上がってくる。  やんわりと顎を指先で掴まれ、上向きにされると柔らかい感触が唇に触れた。  すぐに離れていってしまい、恐る恐る俊平は目を開く。  敏彦が恥ずかしげに頬を赤らめ、視線を逸していた。  口づけされたのだと分かり、一気に体中の体温が上がってしまう。  俊平は羞恥心と共に心が沸き立つ。でも、それはほんの僅かですぐに苦い思いが込み上げてくる。  たとえ二人の想いが同じだったとしても、この恋はいずれ終わりを迎えてしまうことは確かなことだ。  それでも、今だけ……少しの間だけ……一緒にいたいと思うのはいけないことだろうか。  好きだと言えたらどれほど楽だろうか。それでも、愛の言葉を伝えるのは(はばか)れた。  自分の気持ちを伝えて、敏彦に迷惑をかけるわけにはいかない。 「……僕、何も言いません」 「……ああ」  敏彦も同じことを考えているのだろうか。俯いたまま眉間に皺を寄せ、自分の唇を指でなぞっている。 「だから――」 「今日は帰るな」  俊平の言葉を遮るように、敏彦が短く告げる。 「……はい」  言葉の限界のラインを二人で探り合っては、交わし合う。  好きと言ったら何もかもが、終わってしまう。そんな気がしてならない。  気づいたときには、蝉しぐれと共にオレンジ色の夕日が窓から差し込んでいた。 「下宿先に、電報を打ってきます」 「……分かった」  俊平は立ち上がると、革靴を引っ掛け家を飛び出す。  大通りにある郵便局で簡単な電報を依頼し、再び敏彦の待つ家に戻る。 「早かったな」  炊事場で食事の準備をしていた敏彦が、顔だけこちらに向ける。 「人なんてめったに来ないから、なんだか不思議な心持ちだ」  先までの硬い表情は消え去り、いつもの柔らかい表情に戻っていた。  俊平はホッと胸を撫で下ろすと自らも隣に立ち、置かれたままになった葱に手を付ける。  味噌の香りがするところを見ると、味噌汁のための葱だろう。  包丁を手に取り、小口切りにしていく。  そういえば、女中は雇わないのだろうか。男手一人だと、何かと不便であることには違いない。  資産家ならば、一人ぐらいあてがったところで痛手でにはならないはずだ。  そこで俊平は、はっとして眉をひそめた。女中との間で誤りを起こさないためにも、あえて付けなかったのではないだろうか。 「大丈夫か?」  敏彦から声を掛けられ、俊平は我に返る。  中途半端に切られた葱が、ポツリと取り残されていた。

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