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第3話
「小西」
生徒会室にいるのだろうと丹波は踏んでいて、実際小西はそこにいた。泣いているらしい。
「小西?」
歩み寄って背を撫でる。
「…すまない…」
誰もいない生徒会室で無造作に置かれた机の上に小西は突っ伏していた。
「最近情緒不安定なんだってな」
赤く泣き腫らし、小西は目元を拭う。花塚は生徒会室に入ろうとせず、入口に突っ立っている。
「2人の邪魔はしたくないんだ」
小西は嗚咽を漏らして言葉を繋げる。丹波は腕を組んで小西を見下ろした。
「丹波」
花塚が宥めるような声音で丹波を見つめた。今すぐ別れろ、という響きが含まれている。
「あいつは小西と好きな子の邪魔しようとしてたけど、爪の垢煎じて飲ませてぇな。でも俺、小西のこと邪魔だなんて思ってねぇんだわ。あいつも小西のこと愛娘みたいに過保護だし」
「おい丹波…」
「うっせぇよ花塚。今付き合ってんの俺だろうが。あんたがそんなだから小西が気ィ遣うんだろ」
丹波は小西の目元を拭う腕を掴む。放すということを忘れていた。
「おれは海都のことも巴のことも大好きだから…」
「分ぁってるよ。花塚はとにかく俺だって小西のこと好きだし」
「…ありがとう」
だが小西は悲痛そうに俯いた。
「だから1人で帰したくないんだよ。俺みてぇにヘマこいて転ばないように」
小西は苦笑する。その嘘いつまで続けんの?と言わんばかりに花塚に半目を向けられている。だが丹波は構わない。
「…そうだな」
「じゃあ決まり。一緒に帰ろうぜ」
「丹波はゲイじゃないんだろ」
「そうだな。別にホモだと思われてもいいけどな」
腕が接するほど密着する。だがスキンシップはない。中身は伴ってなくてもいいのだ。周りに知らしめなければならない。
「それが目的なんだろーが」
「そ。だからキスでもしてみっか」
校庭の放課後に野球部が使うベンチの上で丹波がそう提案した。花塚は情けない声を上げて丹波から一瞬で距離を置く。
「ガチっぽい反応やめろよ」
「……別にいいぜ。だって付き合ってるんだもんな」
花塚は丹波の横に座り直す。
「え、ちょっと」
「からかいやがって。どういうことだか分かってんのか」
花塚は丹波の顔を両側から押さえ付ける。
「ん、ちょっ」
目を瞑った花塚の顔が迫る。柔らかく、しっとりしていた。悔しくなる。嫌悪感が驚くほどなかった。無防備な花塚に丹波は舌を挿し込んだ。
「んな、ぁふ、たんば、ぁ」
花塚が甘く丹波の舌を噛む。逃げ惑う舌を絡めて、今度は丹波が花塚の両頬を押さえた。
「ンっ、ぁ、ふ…」
花塚が上擦った息を上げ、丹波の腕に力なく指を絡めた。だが丹波は構わない。花塚の顔を固定して、頬の中の餌を探るリスよろしく花塚の口腔を暴く。
「ら、やぁ…た、んば…」
花塚の舌から糸が引く。ぷつりと儚く滴った。花塚の潤んだ双眸。丹波は初めてみるその表情に、身体が一気に熱くなる。まだ思考がまともに働いていないのかも知れない。花塚に見惚れてしまっていた。妙な感覚を打ち払う。
「やっちまったな」
「……ざけんな…」
花塚はまだ開けていない菓子パンを抱き寄せて俯いてしまう。耳まで赤い。
「赤ちゃんデキちゃうかもな」
「やめろ、いくつだお前は」
「5さいくらい」
花塚がさらに顔を赤らめる。菓子パンの袋の音がする。破裂してしまいそうだ。
「随分とマセたガキだな」
「いつまで続けるの」
「今すぐやめてくれるのか」
花塚は一度菓子パンを開けようとはしたがやめてしまった。開けられないのかと問うと首を振られた。
「飯食わねぇの」
菓子パンの袋を抱いたままの花塚を一瞥する。大食いのイメージがあるが実際は知らない。細かいことは何も知らない。表面的な部分だけを広く知っているような気がする。
「お前は平気なのか」
「花塚、俺がいくら頭が良いからって何でもかんでも主語述語省略すんなって」
イチゴジャムの入ったパンを食べながら丹波は言った。校庭で何人かが軽くサッカーをしている。
「好きでもないやつとキス出来んのかよ…」
「は?その理論でいくとあんた俺にマジな感じ?」
花塚は本気で落ち込んでいるらしかった。丹波はあんパンの袋を開ける。こしあんつぶあんに対するこだわりはない。花塚は黙っている。丹波はマジか、と他人事のように反応した。
「付き合うなら形式でもオレは大切にしたい。今はまだ…でもいずれは…」
「面倒臭ぇやつ。まぁ俺も付き合うなら形式だけど浮気はしねぇよ。あんただけを見る。でも小西のことは、見逃してくれないか」
花塚が小西に告白し破 られた話は花塚本人から聞いている。
「当たり前だ」
「板挟みだとか思うなよ。それの問題は俺じゃなくてあんたのポリシーだろ」
花塚はゆっくり唇をなぞる。本心は別のところにありながら、丹波と付き合って、そして心を通わせないままのキス。丹波は気にせずあんパンの袋を折り畳んで結ぶ。
「腹減ってぶっ倒れるとかナシな」
半分ほどになったスティックパンを花塚に差し出すと、花塚は渋い表情で受け取り口に運ぶ。
「丹波は嫌じゃねーの」
「……えーっと、スティックパンの最後の1本あげちゃったこと?5本あったから別にいいし…?」
「違(ちげ)ーよ」
丹波は思い当たることを反芻する。
「ベロチュー?あんたが攻撃側でキスしてきたのが気に入らなかったんだもんよ」
「オレは万里 が好きなんだ」
「あぁ、そっち?気にしてねぇよ、知ってたし。だから付き合わせてんだし」
メロンパンの表皮をスティック状にしたパンの袋を開ける。小さな袋留 が落ち、丹波は拾う。花塚は丹波のその姿を見つめる。だが丹波が体勢を直し花塚の方を向くと顔を逸らした。
「まぁ食えよ」
メロンパンの表皮スティックの袋を花塚に差し出すと、花塚は項垂れて1つ取っていく。
「努力するわ、好きになれるように」
「ならんでいい。形式なんだ。…どうせオレはもう万里 にはコクれねーんだし」
花塚は丹波とは反対方向を見て拗ねているのか唇を尖らせる。丹波はクッキー生地を咀嚼しながら花塚が膝に頬杖をついて遠くを凝視しているのを横目で見た。
「なんで?何度だってコクりゃよくね?恋愛なんてエゴの押し付け合いだろ。変なところで引くなよ、あんたらしくない」
丹波は親身になるでもなくやはり他人事だ。5本に1本だけ入っているチョコチップ入りのスティックを選んで口に入れる。
「万里 にも言われた。変わったンだってよ。オレは何も変わったつもりねぇのに」
「小西が?」
「お前とバカやって、牙が抜けたのかもな~」
「それ自分で言うワケ」
花塚が札付きの素行不良だとは有名な話だった。どこの高校の誰と喧嘩した、よそのチーマーと揉めたという噂を丹波も聞いたことがあった。有村や大迫というOBとの関わり方を見ても信憑性は高い。小西を守れるだけのそれなりの肩書きがやはりあったのだろう。
「自分で分かんだよ。お前といると自分が変わっちまう」
「熱烈だね。でも愛の告白にはチャチかな。何度も言われたし。こんな気持ちは初めてなんです、って」
「コクってねーよ。自惚れんな」
チャイムが鳴った。結局花塚は丹波の渡したスティックパンの半分とメロンパンの表皮スティック1本しか食べていなかった。
「帰り、また小西のところな」
「もぉ、丹波嫌い…」
丹波は「あ、そ」とあしらって別れ際に花塚の頬に唇を押し付けた。
「すまない。今日は一緒に帰れない」
花塚を引き連れて、小西のクラスの迎えに行くと、小西は笑ってそう言った。花塚と顔を見合わせる。
「生徒会か」
「…ああ。遅くなるから…」
「そうかい、分かった。帰り道、マジで気を付けろよ。何なら通話中にしておいてもいいぜ」
「ありがとう」
小西は教室に戻っていく。学費を免除される成績上位者の集まったクラスで、丹波と花塚は浮いていた。
「なんか避けられてね?」
丹波が訊ねると花塚は複雑な表情で丹波頭に手を置いた。
「胸に手を当てて、自分の心に訊いてみろよ」
「心は胸じゃなくて脳味噌にあんじゃね」
花塚が丹波を無言で見つめる。
「俺ノ心サンナンデデスカ、ドウイウコトナンデスカ、教エテクダサイ」
丹波は胸に手を当てて片言で唱える。返事はもちろんない。
「は~、なるほどね」
離れていく頭の上の手を掴む。近くにいた別のクラスの女子が丹波と花塚を見ていたことに気付く。奇妙な顔をして、その女子は教室に入っていってしまった。
「なんだって?」
「セックス」
「は?」
「セックス」
「なんて?」
花塚は耳の後ろに掌を立て、身体を傾けた。
「セックスするか」
「……………なんで?」
「小西、やっぱ遠慮してんだろ。俺たちの仲が悪そうだからじゃね。前に付き合ってた負い目でもあんのか?」
「なんでそういう話になってんだ?」
「俺の胸が言ってた」
「丹波って絶対頭悪いでしょ」
花塚が遠い目をしているため丹波は濡れた肌に触れた。
「やり方知らねークセに…」
外気に冷やされ温くなったシャワーが2人に降り注ぐ。タイルに押し付けられた花塚が丹波を睨む。
「保健体育で習わなかったもんよ。AVみたいにはしねぇよ。こういうのは実践なんだろ?」
「…ッ」
丹波は首を傾げる。覗き込まれた花塚は顔を逸らした。
「お前は嫌じゃないのかよ…」
「え~っと、それは風呂場ってのが?それとも小西のためにセックスすること?」
タイルをシャワーが叩く音。丹波の肌がシャワーを弾いて花塚にかかる。
「男とセックスすることがだ、ば海都」
「…巴ちゃん」
丹波が迫り、唇を重ねる。花塚はタイルの壁に押し付けられた。
「ヤキが回ったかな。本意じゃねーけど、きっとお前にはこの経験が必要になる。きっとな。だから踏み台にしてくれ」
「なんだよ、メンヘラ?あんたがマジで俺から離れられなくなったら俺もあんたを放さないよ」
軽口のつもりだった。だが丹波は言ってしまってから深いニュアンスを自分の言葉であるにも関わらず拾い上げてしまった。しかし花塚は茶化さないが、頷きもしない。
「ダメだ。長くは続かない…続かせない。だけど丹波、お前がいいならオレはもう覚悟は決まってんだ」
「いつも軟派でマヌケのくせに、こういう時かっこいいのな」
花塚の顎を引かせる。花塚のほうがわずかに背が高い。薄い唇におそるおそる舌を伸ばす。急にキスに躊躇いと不安が芽生え、花塚の下唇をなぞった。丹波の胸中を悟ってしまったのか花塚は丹波を迎える。火がついたのか、花塚の舌に舌が絡められる。
「っはぁ…ッあ、ふっ…」
丹波の腕は花塚の身体をなぞり、下へ向っていった。掌に当たる、女体にはない器官。丹波にとっては今更のこと。
「はふ、ぁ」
丹波の舌を甘く噛む。もどかしい微かな痺れが身体を駆け巡る。片手は花塚の雄芯を擦り上げ、片手は無意識に花塚の手首を掴んでいた。まるで花塚が逃げてしまうのを恐れるかのような。
「たん、ばァ」
花塚の空いた手が丹波の肩を押す。甘えるような、困り果てたような声を上げる。丹波は放す。花塚は指を口に入れた。丹波はそれを見つめる。花塚は目を伏せ、腰を落とす。
「なに、して…」
「うっせ、いきなり入れられねーんだよ」
花塚は顔を歪めて丹波を見上げる。タイルに膝をつけ、躊躇われる秘部へと手を伸ばす。
「花塚…」
「うるせーって…」
丹波は花塚の肩に触れ、目の前に同じように膝をつく。苦悶の表情を浮かべて微かに手を動かしす花塚の唇を奪う。シャワーが丹波の背を打った。
「っン、な…ふ、」
花塚は小さく震えていた。花塚からは想像できない、甘やかで柔らかい口内。夢中で舌を絡め、掻き回す。酔いそうになるのを堪え、衝動を抑えながら加減する。微かに湿った音がするがシャワーの音とタイルに湯が叩きつけられる音で掻き消された。
「っ、あ、ん…ふぅ、は…ぁ」
花塚はバランスを崩して丹波の胸へしなだれかかる。
「大丈夫か?」
「…も、挿れろよ…」
花塚は丹波に背を向ける。
「…う~ん」
「今になってイヤになったか?野郎のケツに突っ込むの」
「ムードねぇやつ。そんな簡単に入るワケなくね」
閉ざされた粘膜の窄まりを一瞥して、顔を赤く染めた花塚が唇を噛む。
「でも…」
「マゾってわけでもねぇだろうが。なに考えてんだよ」
「お前がセックス下手野郎って、言いふらしてやんだから…」
急いている様子の花塚に圧 され丹波は溜息をつく。
「分かった、ただし痛かったらすぐ言えよ。あんたは今、俺と付き合ってんだ。その相手に傷付けんの俺はイヤなんだよ、分かれアホ」
花塚の下半身を支える。十分慣らしきってはいない器官へ丹波の先端が当てられた。
「…っ、い…あ゛…ぐ、く…ぅ」
「花塚…」
花塚の頸を舐める。きつく浸入を拒む柔らかい秘部がわずかに緩み、その隙を突いて半分ほどまで腰を進めた。
「あっ、ぐ…ぁあ゛…痛っ…」
「痛ぇか?」
「つ、づけ、…ッろ…ぉっ、」
丹波は耳を塞ぎたくなった。だが花塚は何か考えている。意味は分からないけれど。腰を支える手で肌を撫で回してから前の雄茎を擦る。花塚の臀部が微かに動き、丹波の茎を出迎える。
「はぁ、…っ、くぅ…ふ、あ゛ぁ゛…ッン」
「花塚」
花塚の甘い声と苦しげな声が混ざり合った。
「だい、じょ…ぶだ…から…はッ」
タイルについた花塚の手が真っ白い。続けるか否か迷いが現れる。花塚の雄芯を往き来する指が止まってしまう。花塚から半身を引き抜く。
「やめよ。無理」
そう言うと花塚は丹波を振り返った。目を見開かれた。
「焦ることはねぇって。あんたには暫く付き合ってもらうんだから。少しずつでいいって」
「でもよ…」
「付き合ってすぐ合体ってカンケーじゃないでしょ俺ら。半分入っただけでも上々じゃね」
「ムードねーやつ…」
丹波は落ち込んでいる様子の花塚を抱き締めた。
「オレは万里 が好きなんだ…オレは万里 が…」
花塚は丹波の腕の中で縮こまってそう呟く。
「でもフられて、今は俺と付き合ってんだ」
「そうだけどよ…」
触れようとした手が、避けられる。
どいつもこいつも情緒不安定なのか。丹波から離れてソファの上で縮こまる花塚を見、溜息。目も合わせようとしない。
「花塚」
丹波は花塚の真横に座る。花塚は後退するように身を引いた。捕食者か被捕食者かでいうと圧倒的前者の体格、雰囲気を持った花塚が人畜無害を自負してやまない丹波に怯えている。何をしたわけでもない。無理矢理襲ったわけでもない。多少物理的な無理はあったかもしれないが一方的ではなかったはずだ。
「小西小西って、…少し妬いてんだからな」
丹波は化学薬品のような風味の強いオレンジジュースを注いだグラスにストローを挿して、吸った。花塚に出したものは一口も飲まれていない。
「…っ」
「いうても小指の白いところくらいだけどな」
花塚が睨む。それが何故だか胸をざわつかせた。身体中の毛が逆立った気分だった。ゆっくりとオレンジジュースのグラスを置く。ゆっくりと花塚を見て、警戒しながら捕まえる。慣れない野良猫に近付くような、晩夏に迷い込んだトンボを捕まえるかのような。
「な、っあぁ、」
掠れた声を上げた花塚の唇が塞がれる。変わって見えた。粗暴で軽率なくせ時折見せる爛漫な幼稚な男だと思っていた。だが今は、摘み取られても根は残った恋慕に悩む一途で愚直な男、いや、少年。人工的なオレンジの風味。ファーストキスはレモン味というフレーズが頭に浮かんだ。胡散臭い甘さの柑橘類に酔って丹波は花塚の舌を吸う。
「ぁ、ふ…ぁぁっ」
抵抗する手は力無く丹波の腕に縋る。比喩でも誇張でもない甘酸っぱい風味がお互いの口元を漂う。
「はっ…ンくっ、ん…」
花塚の指が丹波の腕を滑って、衣服を掴む。ソファの背凭れに花塚を押し付けて唇を貪る。もう嫌だと花塚が丹波の舌を甘く噛み、胸を叩いて、それから押した。
「な…にす…んだよ…」
肩で息をしながら花塚はソファに身を委ねたまま潤んだ瞳が丹波を睨む。
「…なんかすっげぇかわいく見えただけ」
花塚はケダモノ!と言って両腕を抱えた。
「あんたのこと本気で好きになっちまったら小西のこと、疎ましく思うのかな。それは怖ぇわ」
そう言ってまたオレンジジュースを飲んだ。花塚もつられたのかグラスを手に取る。
「それは、ダメだ。オレのせいで万里 が悲しむとか、ナシ」
「分かってんよ。俺だって小西は弟みたいに思ってんだ」
そうか、と花塚はわずかに残念そうだった。
「恋人みたいには、思えねーか」
「なんで?オレの恋人、あんたじゃん?」
花塚は項垂れて、そうだったな、と呟いた。
「小西」
丹波は小西を迎えに行った。まだ花塚のクラスは終わっていないらしかった。小西は眉間に皺を寄せてやって来る。
「海都…やっぱりもっと巴のことを考えるべきだと思うんだ。もうおれのことはいいから…」
小西は丹波に目を合わせない。機嫌が悪いのか、最近目立つようになった情緒不安か。
「おい小西…」
「放っておいてくれ!うんざりなんだ!」
小西は怒鳴った。丹波は怯む。小西のクラスメイトたちが丹波を注目した。
「小西」
「放課後、生徒会室に来てくれ」
目の前でドアが閉まった。小西が何か言ったが、残るのはうんざりなんだ、という姿。丹波は立ち尽くす。目の前が真っ暗になる。花塚に申し訳なくなった。花塚を巻き込んでしまったような気がした。花塚のことは怒らないでやってくれ、と言いたかった。治りかかった傷がまたぶり返したのか、足が重い。痛くはない。痺れもない。湿布も包帯も取れている。通院するよう言われていたがしなかったせいで奇妙な治り方をしたのかも知れない。
「丹波?」
花塚が肩に触れた。やっと視界が光を取り戻す。
「花塚…」
「万里 は?」
「放っておいてくれ…ってさ」
丹波は首を振りながら、その時の光景を頭の中で繰り返す。
「そうか」
「暫くは一緒には帰れないかもな。俺もちょっと今日はダメっぽいわ。他のやつと帰って」
丹波はごめんな、と言って笑った。
「…浮気しちゃうかもよ」
花塚は丹波がいつもと違うことに気付いたらしく丹波に密着する。周りの目など気にならない。なったとしても、それが丹波の目的で花塚は協力者なのだ。
「させねぇよ」
丹波はのるが、だがどこか投げやりで心ここに在らずといった調子で花塚は丹波と向き合った。
「何があった?」
「何もねぇ」
「嘘だろ。お前はオレに、笑って謝らねーもん、絶対」
花塚の真っ直ぐな眼差しから目を逸らす。照れ臭くて仕方ない。
「何もない。大マジ。だから、帰れ。な?」
納得はいかなそうだった。丹波は花塚の背を押して下駄箱まで連れて行く。
「…あんま1人で背追いこむなよ?カレシがハゲとか嫌だかんな」
「ハゲてもかっけーからいいんだよ俺は。ほら、気を付けて帰れよ」
花塚を急かす。身を引ける器量と頼もしさが悔しかった。そしてそれを理解し、利用してしまう。
「どうだか。お前のこと考えてすっ転んだら看病してくれな」
「24時間スペシャルコースで面倒看てやるよ」
花塚が玄関扉の奥へ消える。見送ってから生徒会に向かう。小西がいた。入り口からは背を向けて座っている。ソファは窓際を向いて配置され、教室にある机と椅子が点々と散らばって置かれている様はいつ見ても乱雑な印象を与える。マネージャーや使いっ走りの1年が入らなかった部の部室のゴミ箱、というストーリーのある、分別も諦められたゴミの山が部屋の隅に積まれている。それでも少し小西を手伝い片付けたのだ。
「来たぞ」
小西が振り向く。何か思い詰めている。花塚とは性分が違うことを丹波は自覚している。相手の下手な誤魔化しを尊重することは出来そうにない。
「海都…」
だから小西のことに首を突っ込む。
「小西、悪かったよ。ちょっと軽率だったかも。小西がジョカノ連れて俺と帰ろうって言ったら、俺だって遠慮する。悪かったよ。顔見知りだしいいかなって、俺が甘かった」
拗ねているような響きが含まれていた。小西の目が泳ぐ。腑抜けた実弟よりも、小西のほうがよほど保護欲を煽る。花塚とは意味合いが違えど丹波も小西を構いたかった。
「海都、もういいんだ。もう大丈夫だから。おれが情けない姿晒したからいけないんだろう?それなら、もう大丈夫だ」
小西はまた眉を寄せる。虚勢か意地か。
「情けない姿って…」
生徒会室の扉が開く。小西の眉根にさらに皺が寄る。青年が立っている。背が高く、だが華奢で怜悧な雰囲気を持っている。黙ったまま青年は丹波を値踏みしている。
「兄さん…」
「お兄様!?」
何故様付けで呼んだのかは丹波にも分からなかった。清潔感と気品のせいか。黙ったまま小西に兄と呼ばれた青年は丹波に何か言うこともなく小西に近寄った。そして抱き締める。丹波は目を丸くする。17、18の弟を抱擁するだろうか。自身の弟を重ね合せる。無しだ。それとも長い間、離れていたのだろうか。
「やめて、兄さん…」
小西は頬を赤らめる。それは恥ずかしいだろう、丹波は同情した。しかし、目の前で青年は小西に荒々しく口付ける。丹波は凍りつく。散々花塚と交わしたものだ。場合のよっては生まれて間もなくならば家族とだって交わす。無知な親がそうして嬰児に口内菌を移すのだと先日医師や親子タレントをゲストに加えたバラエティ番組で激論を繰り広げていた。だが花塚とのそれとは同じ意味合いで、家族とのそれとは全く違う意味合いのキスが、目の前にある。声が出ない。何か言ってやらねばと思うほど、言葉も出ない。
「に…ぃさ…ッ」
深まっていく。小西の手が青年の胸を押して拒むが青年の腕は小西の両腕を掴んだ。
「ちょっと、あんた!」
お兄様と呼んだことも忘れて丹波は青年を小西から引き離す。青年は機嫌の悪そうな目を丹波に遠慮なく向ける。それがそういう人相なのか実際に機嫌が悪いのかは分からない。
「兄さん…」
「万里のことは、心配するな」
眉間の皺と切れ長の瞳。特徴は花塚と似ているくせ、月と太陽のようにまるで印象は正反対だ。
「お兄様がそう仰るなら」
嫌味を混じえ、苦笑する。薄ら寒い。実の兄弟なのだろうか。何か事情のある家庭なのかも知れない。それがどういったものなのか、丹波のいる家庭では想像も仮想もしようのない。
「呆れた弟だ。手前の色情など手前で踏ん切りをつけろ」
青年は興味が失せたとばかりに丹波に背を向けた。そして小西へ冷たい眼差しを送る。小西はゆるゆる首を振った。
「そんな言い方ないんじゃないすか。こいつだってそれなりに悩んで…」
有村と大迫の件は何も小西だけの責任ではないはずだ。割って入った丹波が気に入らないのか青年は小西に手を上げる。
「ちょっとお兄様?」
「外野は黙っていなさい。愚弟を持った兄の気持ちなど君には分かるまい」
平手打ちされ、床をじっと見る小西を丹波は溜息を我慢できなかった。
「頼れない愚兄を持った弟の苦労が分からんのです?」
「海都…!やめてくれ…っ、兄さんは悪くないんだ」
小西が泣きそうな目をして丹波は続きそうになる言葉を飲み込んだ。青年は小西をソファに押し倒す。
「君も見ていくといい。この身体はこうしてやらないと、上手く生きてゆけない」
頭の中が真っ白になった。嫌だ嫌だと喚きはじめた聞き慣れた声は親友とも呼べた間柄のもので、だが親友という関係であるなら聞かないだろう艶を含んでいる。修学旅行の夜の若さを持て余した青臭い戯れとは似ていて大きく異なっている。青年の手が小西の制服を剥いていく。蜜柑の皮を剥くより容易いと言いたげに。瞬きを忘れ、乾いた眼球に反射がやっと稼働する。四肢が全て鉛に代わってしまったのか、いや、動くという概念もなかった。そして丹波は透明と化す。物理的に存在しているくせ、丹波を認知する者がいなくなった。2人の世界が艶めいて、そしてさらに丹波は透明と化し、丹波もそれを望んでしまった。
きっと男性同士で裸で絡み合う、それは水着であるとかもしくは風呂場であるとか、夏場の夜であるとかとは別の意識で、そうしたことがあるのだろうと漠然と思っていた。相手は花塚で限らずとも有村や大迫或いは両方と。どういうなのかはやはり分からなかった。考えようともしなかった。付き合うという枠がなくても、仲の良い男同士なら悪戯に触り合うことくらいならやる。だが花塚と風呂場で中途半端に繋がって、初めて漠然が判然へ変わった。
「海都っ…!」
ぷつりと思考が途切れた。現状がすぐさま視覚と聴覚を駆使して流れ込む。媚びた声で名を呼ばれ、鳥肌が全身を覆う。青年の背で小西を見ることは出来なかった。組み敷かれているらしい小西の手が背に指を立てているだけ。
「こに…し…?」
おそるおそる呼ぶ。
「あっ、やらっ…ぁん!にい、さァっ」
軋むソファ。揺れる青年の腰。よくある体位で人間の営みだ。だが客観視すると衝撃的で奇異だ。人間は人間の営みでまるで妖怪のような動きをする。ひっきりなしに上がる嬌声が小西の形をした化物のもののようにしか思えない。けれど理性がその可能性を否定している。
「小西…」
「君もやるか?」
「いやだ!兄さん!」
丹波は顔が引き攣る。整ってはいるが不愛想な顔と鋭い目が丹波へ振り向く。跳ね起きようとした小西の口を掌で押さえ込む。
「んぐっ…!ぅく、ふ、うぅ…」
ぎしりとソファが一際大きく軋み、小西は苦しげな声を上げで大きく目元を歪ませた。丹波は立ち尽くすまま視覚と聴覚に置いていかれた思考と感情を待つ。
「有村と大迫とはどうなってる?花塚とは別れたんだったか?」
小西の歪んだまま伏せられた睫毛が光る。掌で口を塞がれたまま。
「何してんだよ!」
乱暴に開かれた生徒会室の扉の音に驚いて丹波は竦み上がった。花塚を花塚と認識する間もなく、ソファの上の青年が転げ落ちた。だが花塚は小西に触れることなく丹波のもとへ来た。
「大丈夫かよ」
花塚の声に、やっと置かれている状況を理解した。
「花塚、なんでいんだよ。帰ったろ」
「ばっか。お前が電話出ねーから、また変なのに絡まれてっと思ったんだよ」
安心したとばかりに大きく息を吐いて丹波を近くにあった椅子に座らせる。
「花塚、もう別れたんだろう、万里とは」
青年は服を整えて花塚に対峙する。
「千里 お兄様?うちのカレシが世話になったみたいで」
花塚と呼び方が同じであることに照れ、そして千里と呼ばれた青年が丹波と花塚を交互に眺める。
「ああ、なるほど。理解した」
「そういうわけなんで、こいつ、返してもらいますんで」
「花塚、君のような腐ったみかんのことは心底どうでもいい。だがそれでも弟を捨てたことに対しては残念に思っている」
「…ならてめぇがてめぇのケツ拭い切ればよかっただけだろ」
花塚は丹波の肩に触れながら、なんとか感情を抑えているらしかった。殴っちまえばいいのに、と思ったが大事になれば処分されるのは花塚だろう。小西の家の庭にいるようなものなのだ。
「弟に拭かせやがって…」
花塚はどうにか怒りを堪えているらしかった。
「ふん。君らみたいな不良は言って聞かんだろう。不愉快だ。あとは自分でどうにかしろ万里」
青年は生徒会室を後にしてしまう。半裸にされた小西をそこに残し、扉は静かに閉まる。寝そべったままの小西は目元に腕を乗せ、啜り泣く。駆け寄ろうとして花塚に手首を掴まれ止められる。見上げると唇を噛み締めた花塚がいる。丹波にはまるで分からない。彼等に何があったのか。知る気は毛頭ない。
「花塚、」
「お前はオレのカレシだろうが、ばか」
いつか選ぶ日が来て、そしてそれは今なのだろうか。
「ごめ…なさい…っ」
小西が嗚咽する。力のこもっていない手を払って、丹波は小西のもとへ急ぐ。花塚は何も言わず生徒会室を後にした。
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