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第4話
緩く勃ち上がった茎に触れる。小西の身体が大きく跳ねた。涙ぐんだ目が腕の下から丹波を覗く。
「つらいだろ。今ヌくから待ってろ」
丹波は緩く擦る。静かな空間の中で連続した微かな音が生々しい。小西の腰が扱くたびに浮く。
「はッぁ、かい、と…ぉ…んんっ…かいとぉ…っ」
震えた甘い声で呼ばれ、震えた手が丹波の扱く手に重なる。
「あ、ん…っんぁ…」
丹波は手を止めず上下に動かし続ける。ムードも何もここでは要らない。ただ物理的快感を与え射精させるだけだ。花塚に対する裏切りではない。そう言い聞かせて。きっと花塚は赦すだろう。赦さなかったら仕方がない。少しの喪失感を抱えるだけだ。深入りすればおそらく厄介なものになる。引くなら今で、丁度良い機会なのかも知れない。
「あ…やっぁ、かい、と…、そこやだァっ、ぁあッ、」
先端部とそこへ繋がる敏感な筋を刺激すると赤くなった顔をしわくちゃにして頭を振る。溢れる透明な液体が丹波の手に絡んで滑りを良くし、快感を強請っている。小西の身体が跳ねた。腰が忙しなく突き上がる。
「っん、ぁっ、やだ、やだァ、ああっ、あっ」
ティッシュが見つからずもう片方の手で飛ぶ白濁を受け止める。小西の香りに混じった潮と苦味の強そうな草の匂いが仄かに漂った。数回に分けて吐き出される白濁が勢いをなくすまで手を休めなかった。痙攣する小西の腹を最後の一滴が汚す。掌に溜まった白い粘液を暫く見つめてしまった。そして生徒会室の水道で洗った。水道の軋む音とシンクを叩く音に落ち着いた。現実的で日常的なその音が、夢から覚めた時のような気がして妙な気分だった。あれは夢だったのだ。だがそれでは済まされないだろう。同じ時間を共有してしまった者が他にいるのだから。そしてその者は間近にいる。ソファの上で肩を落とし、俯いている。体育座りをしている姿が小さく見えた。
「犬に噛まれたとでも思えよ…いや、犬は…大事 だな。猫に引っかかれたとでも思えよな」
狂犬病のワクチンをしていない犬は狂犬病の威力や影響力の割りには少ないのだと少し前のニュースで観た。これはそれほど大袈裟ではない。
「…巴はいいのか」
「友達よりカレシ選ばなきゃなんない決まりはないんだな」
小西はソファの上で膝を抱える。
「海都はなんでそんなに、優しいんだ…」
「優しいか?俺。現に花塚のことは放置してしまっているわけだが」
花塚が唇を噛んでいる姿が焼き付いている。きっと自身よりも小西に寄り添いたかったのだろう。だがそうしなかった。
「そろそろ行くわ。…言葉通り、もう心配しねぇ。だからまぁ、身体、大事にな」
丹波は去り際、小西に背を向けてからでしか伝えられなかった。出来ることなら触れないほうがいい事柄なのかも知れない。だがきちんと伝えなければ、また無理をするのではないかと丹波は思った。有村と大迫と話のケリがついているのかは分からないけれど。あの青年が出てきたのならどうにかまとまっていると考えていいのかも知れない。
「巴ちゃん」
花塚の家を訪ねる。高校の南にある新興住宅地にあるまだ新しい家。さらに南に行くと教科書に載るほどのシャッター商店街がある。
花塚はつまらなそうに丹波を迎える。前に一度だけ来たことがあったが似たような家々が並ぶ中でよく覚えていたと自分で感心していると、よく分かったな、と花塚が零す。
「愛の力?」
「アホぬかせ」
花塚は耳を少し染めている。丹波も何故だか胸が躍る。以前なら、付き合う前ならふざけ返しただろう。
「俺と付き合ってから花塚はあんま、笑わなくなったよな」
「お前が意外と頭悪くて驚いたんだよ」
背を向けて廊下を歩く花塚を後ろから抱き締めた。
「万里 はどうした」
「一応まぁ、ちょっと様子見て帰ってきた」
花塚の胸に強く腕を回す。花塚の身体が強張っている。
「…助けに来てくれて、ありがとな」
「付き合ってんだから、当然だろ」
丹波は熱い湯が喉を通っていくような感覚に陥った。花塚を放せない。痛がられるまで両腕に抱いていたくて仕方ない。形式だったはずで、合意の上で利用していただけのはずだ。だが一言一言送られる言葉を軽く扱えなくなる。
「巴ちゃん」
「ンだよバ海都」
「あんたがあんま笑わなくなったのって、」
「戸惑ってんだよ、色々と」
胸に回した腕を解かれて花塚は2階に上がってしまう。
「戸惑ってんのは俺もなんだけど?」
しかしまだ言えそうにない。言えないかもしれない。冗談にされるだろう。いつもなら冗談で済む。自身の中で冗談だったから。
「きちんと話しておくわ。こうなったら丹波も部外者じゃねーもんな」
花塚の部屋はホワイトとブラウンを基調とした花塚からは掛け離れた趣味の良い雰囲気と配色で統一されていた。白い壁にサボテンがよく映えている。
「あの人は本当に小西の兄ちゃんなの?」
「似てないもんな…まぁ家庭の事情なら知らないけど兄ちゃんだな」
花塚は小型冷蔵庫から缶ジュースを出した。自室に小型冷蔵庫があることは前回は知らなかった。物はあまり入ってなさそうだ。花塚がプルタブに指を引っ掛けて缶を開けるとプシュッと音がした。
「何から訊いていいか分かんねぇ。あの人がちょっとイヤなやつってことしか分かんねぇんだけど」
「そりゃな。だって有村と大迫のご主人様だよ」
「ご主人様…?何それ」
「千里お兄様の性奴隷」
「あ~」
アダルトビデオのタイトルで知っている。巨乳妻性奴隷だとかコスチュームプレイ要素も兼ねた女子高生性奴隷計画だとか男性が性奴隷になるものもあった。
「え?ご主人様の弟に手ェ出してんの?」
「千里お兄様は万里 に冷てぇからな」
「冷たいっつーか、なんか…」
「驚いたろ。驚くよな。無理もねーよ。オレにも兄貴いるけど、流石にな」
花塚は苦笑する。何のことだかはすぐに通じたらしい。口にするのも躊躇われた。
「千里お兄様に捨てられたんだが、それとも私怨でもあんのか、矛先は万里 に向いたワケ」
「それで付き合ったんだっけか」
「オレの兄貴が有村と大迫の親分みたいなところあったからな。オレが間に入れば万里 は乱暴されずに済む」
「でもなんで?巴ちゃんゲイじゃないっしょ」
花塚が呆れた目をした。黙っていると食うか?と言って棒付きキャンディを差し出す。もらう、と言って包みを剥いて口に放り込まれる。葡萄の味がする。
「…前に庇ってもらった」
「義理堅いんだな」
「腐ったみかんにもプライドはあんだよ」
身に覚えのない煙草の吸殻をねちねちと責め立てられたらしい。その時通りかかりの小西が、花塚は昨日まで暫く自宅謹慎だったことを告げたらしかった。実際花塚は煙草を吸わない。そういった匂いもしなかった。
「奴等が卒業して、オレはあいつの優しいところとか無邪気なところとか、かわいいところとかに結構マジになってて、でも万里 は別れようって言い出して…そもそも男同士でオレはこんなだから、仕方ないよなとは思ったけど…」
懺悔のように思えた。腐ったみかんというにはまだ青く見える。甘みもまだ出ていない。
「うん。妬くから、もういい」
「なんだよそれ」
困惑した面持ち。俯いてしまう。丹波はその姿に見惚れてしまう。
「オレはやっと、吹っ切れたってのに」
「…は?」
「両方好き、じゃ、クズ男みたいだろ」
花塚は顔を上げ、丹波は瞬時に花塚から目を逸らす。
「え~っと、それは?」
「オレが付き合ってんのはお前だからとか、お前がこれ以上モテないように付き合ってるだけなんだとか、もう言い訳しない。万里 のこともすっぱり忘れる。バ海都のことだけ見る」
「バが付かなければ120点」
「何点満点中?」
「…200点満点だ、ばか」
花塚とじゃれ合う。17歳がするには幼い触れ合い。
「海都、」
暫くべたべた腕や胴、首や顔を触り合って、擽ったがりながら花塚は丹波の膝の上へ寝転び、仰向けになった。不安げな眼差し。目が合うと泳ぐ。
「なに、巴ちゃん」
薄い唇に指を乗せる。名を呼ぶと花塚の瞳孔が見える。
「…っ」
「7秒見つめ合えたら、心理的にセックス出来るんだってよ」
「心理的セックスって、なんだよ」
「…やってみる?」
花塚と見つめ合う。穏やかだった。性衝動も起こりそうにない。花塚のシャツ越しに感じる体温が心地良い。小さな瞳孔と虹彩。白く光る角膜。瞬き。
「いつまで、やんの?」
「さぁ?数かぞえてないし」
「4秒くらい?」
「じゃああと3秒」
7秒以上経っているような気がした。だが照れも恥ずかしさもなく見つめ合う。
「キスしろよ」
頬を染めて花塚が唇を求める。目を合わせたまま。丹波は花塚の輪郭を捕らえる。柔らかく唇同士が触れた。蕩ける。すぐに離れると胸がきゅんと切なくなった。
「海都…」
掠れた声を上げた。花塚は起き上がって、丹波を掴む。押し倒して、覆い被さった。
「とも、え…ちゃ…ん」
額を当てる。さらさらした丹波の髪が花塚の額との間に挟まれる。鼻先と鼻先が当たった。しっとりした唇が唇を塞ぐ。何故だかぽつりと頬に水滴を感じた。
海都ぉ、最近あの子来なくない?
小西と関わらなくなると、昼休みは教室で過ごすことが多くなった。花塚は自身のクラスにコミュニティがあるらしい。兄貴分で男女問わず畏れられてもいたが慕われてもいた。喧嘩したのぉ?とクラスの女子が丹波に訊ねた。いんやぁ、とのんびり否定を返した。喧嘩してはいない、はずだ。突き放されてしまったともいえ、構い過ぎたともいえる。花塚との恋路か、小西との友情か。両方を選ぼうとして後者の選択肢は消えた。小西は元気でやっているだろうか。神経質そうな小姑染みた兄にいじめられていないだろうか。カノジョでもデキたんじゃね?と適当なことを言ってすり抜ける。意外とこのクラスで人気になっているらしい。華はないが真面目で誠実、だがユーモアや柔軟性のある小西は密かに女子の会話に上がることもあるようだった。学費免除の特待生クラスとの壁を丹波は気にしたことがなかった案外高いらしい。大差のある偏差値と科を越えて花塚と関わっていたからかも知れない。
おいおい海都、大丈夫かよ。いつも昼うちに来てるやつ、運ばれてったぞ。
小型の牛乳パックを飲みながら教室に入ってきた男子が言った。周りの女子がわずかに顔を曇らせた。クラスメイトの言葉を受け取り、教室を飛び出す。いつも通りの廊下を駆け抜ける。運ばれていく、と聞いて真っ先に浮かぶのは保健室で。この高校は基本的にプラスチック製の分厚いスリッパで過ごす。学年ごとに色は違うが科で色は変わらない。サイズより少し大きめに作られているせいで走ろうとすると脱げそうに滑る。それは廊下を走らないようにするためか、上履きの踵部分を踏ませないためか、もしくは足の臭いの予防という話もある。保健室は裏校舎の1階だった。
「小西!」
保健室の扉を乱暴に開く。クリーム色のカーテンに覆われたベッド。その前に立つ花塚が振り返って口元に指を立てる。静かにしろよとばかりに顔を引攣らせている。
「何してんの、巴ちゃん」
「海都こそな~にやってんだ」
「小西が運ばれたって聞いたから」
花塚はカーテンをゆっくり開けた。布団を掛けられた肩が見える。
「さっきまで起きてたんだけどよ。貧血だってよ」
勉強のしすぎかもね。
丸眼鏡を掛けた保健医が言った。白髪染の黒さが不自然な、科学者のような雰囲気を持っている。
「そうですか。小西が…」
このまま放課後まで起こすつもりはないが本人しだいではすぐに帰宅させるらしい。
「戻るぞ、海都クン」
「…へぇい」
カーテンの奥を覗いていた花塚は丁寧にカーテンを閉めて丹波の肩を抱く。
「あんたが運んだの?」
「オレの目の前で倒れたからな」
「じゃあ小西と会ってたのかよ」
純粋な疑問のつもりだったが片眉を上げた花塚を見て、嫉妬と捉えられてしまいかねない発言だと半ば悔いた。
「いや、違くて…」
花塚が胸に抱き寄せる。腕をとんとんと叩かれた。保健室前は人通りは少ないが、誰も通らないわけではない。だがそもそもの狙いは牽制なのだ。まさか牽制よりも先に中身が出来上がってしまうとは思わなかったが。
「顔色悪そうだったから話かけたら、倒れちまって」
「大変だったな」
花塚の頭を撫でる。だが花塚がふわりと口元を吊り上げると甘やかされているのは自身である気がして丹波はすぐに手を引っ込めてしまう。
「…まだ手ェ切れてねーみたいなんだわ」
「え?」
花塚の声が低くなる。丹波は聞いたことがないほどのものだった。花塚の噂はどれも悪いものばかりだったが、関わってみてその片鱗を見たことはない。誇張表現や、尾鰭 背鰭 付いたものだと思っていた。だが本当かも知れない。
「まだ抱かれてやがる。お兄様 ならあんな痕付けない」
丹波がいるためか、抑えているらしかった。強く拳を握り締め、低い声は震えている。怒りを感じた。他人の怒りを。抑圧された強く燃え上がる怒りが丹波に伝わってしまう。だがそういうことには疎い。空気が読めないきらいにあった。自覚はあったが性分だ。
「は?」
「噛み傷」
花塚は自身の首筋をとんとんと指で突つく。
「ごめんな、海都」
「~、何のこと?」
だが花塚も空気が読めないのか、それとも学ばないのか当然ように主語述語を相手に丸投げる。
「お前のことしか見ないって言った」
「浮気だとか思ってねぇから。それに小西のことは特別なんだろ。分かってる」
人気 がないのをいいことに花塚は触れるだけの口付けを交わした。
「小西のことは俺も」
花塚は微かに笑んだ。
泣く子どもがいた。小さな子どもが彼を囲み、地を蹴る。砂が小さい身体にかかる。丹波は校庭でそれを見つめた。同い年なのだろう、遠目からでも名札が1年を示す印が付いている。ピンク色のそれはよく目立つ。今ならば名札は忌避される。10年弱で個人情報の扱い方が変わった。ランドセルも赤と黒でないほうが多数派だった。黒地にピンクの刺繍が入ったランドセルを見て丹波はそう思った。
『やめろよ、カワイソーだろ!』
正義の味方というものにまだ穿った捉え方をしていなかった。己の正義と相対した者なら、その攻撃性すら正しかった。正義の味方になりたかった。赤いスーツと光るデバイス。きっと、いずれ。非力な拳で相手を殴り、何も背負ってはいないランドセルを掴んで、蹴散らしていく。だが数的不利だった。負けたのだ。そして大きな身体に投げとばされて、そして覚えていない。
『いーけないんだ、いけないんだー、せんせーに言っちゃおー』
ボールが目の前を転がっていく。陽気な歌声。何か喚き散らして立ち去っていくいくつもの足音。
『何してんだよ。アンタも泣くだけかよ!』
知らない誰かの声だった。だがそれよりも悔しさに視界が潤む。
『そんなだからいじめられるんだ!』
丹波は起き上がることも忘れていた。ただ滲んだ視界と晒された肌に減り込む砂利の感触。
『一生泣いてろ、ばーか、ばーか!』
足音が去っていく。その姿も見ず、丹波は泣いた。口の中に砂利が入るのも厭わず。悔しくなって立ち上がる。膝からぱらぱらと砂利が落ちる。擦りむいた傷口にまた涙が込み上げた。
『ほら、帰るぞ、ばか』
ほぼ癖だった。弟との区別もつかないまま小さく泣く同い年の手を引いた。ぽつりぽつりと雨が降り出す。雨が降っていなければ、持ってきていても生徒玄関に傘は置きっ放しだった。
『兄ちゃん』
手を引いた同い年の男児はやっと自主性を持って、丹波を後ろから抜いた。中学生が大人に見えた。男児は何かを捲し立てて、それから丹波を指差して何か言った。
『またいじめられたのか、情けない』
中学生のその言葉だけはしっかりと覚えている。そして渡された大きな傘は、返さなくていいと言われた。
『お前が弱いからいじめられるんだ。君も弱いくせ、助けてやろうだなんて考えるなよ』
『弱さは悪だ』
なるほどな。丹波はベランダの手摺りに腕を乗せながら、幼い頃の夢だったのか実際の記憶だったのかも覚えていない昔のことを思い出していた。ただ一言二言目には必ず「ばーか」という馬鹿の一つ覚え染みた同級生はいた。"トモちゃん"と呼ばれていた彼は2年生になる頃には引っ越してしまっていた。
「海都…」
思案と回想に暮れていたが現実に引き戻される。放課後だ。小西が丹波の教室へ久々にやってきた。顔色が悪く、隈が濃い。血色の悪い唇は罅割れている。まさか小西から来るとは思わなかった。おそらく保健室に向かった花塚を待っているつもりだった。花塚は小西の元に行ったのではなかったのか。
「どうした?」
見ない間に憔悴しきっている。言葉も出ないのかわなわなと口を動かすがそこに声や言葉は乗っていない。
「巴は…?」
「保健室にいなかったか?便所?」
歩くのもやっと、という風だった。丹波が暴行された翌日よりも厄介そうに思える。
「じゃあ、もしかして」
小西は突然しゃがみ込む。どうした?と丹波も屈む。
「有村先輩たちのとこにいるんだ…」
「は?」
そして見えた、小西の首筋の傷。周りに散るキスマークという気遣いのあるようなものではない鬱血痕がまだ生易しく感じる、それは傷口だった。痛いだろう。だが通常の絆創膏ではわずかに収まりそうにない。
「有村先輩と、大迫先輩のところに…ッ」
「ちょっと、落ち着けよ」
ふらふらしながら突然立ち上がろうとしたために丹波は支えざるを得なかった。
「どこにいるのかも分かんねぇんじゃ…どうしようも…」
小西の肩が震える。両腕を抱いている。白くなった骨の浮かぶ手が痙攣していた。
「東の、廃材置き場だと、思う…」
頭が真っ白になった。小西も、その場の景色も物音も視界と聴覚から吹き飛んで、丹波は駆け出した。習慣として身に染みている下駄箱での靴の履き替えでやっとショートした思考回路が正常に戻る。今から行ってどうなる。小西のことは放っておくのか。小西の勘違いかも知れない。有村と大迫はヤバいやつ。花塚の言葉が蘇る。心配などしていない。迎えに行くのだ。自身が連れ去られ暴行された場所へ。
複数人に囲まれて押され、揉まれ、突き飛ばされる弟と、そこを割って入っていく勘違いした小学生を横目に丹波は友人と帰って行く。
『あいつスゲーよな、父ちゃん理事長で兄ちゃん高等部の生徒会長らしいじゃん』
友人は笑う。萎縮もせず、すぐに慣れたらしい。
『昔は大泣きこいてたのになー』
『へぇ?めっちゃだせぇな』
『いや、お前もだ、ばーか』
転校してきたばかりの学校で。
東の廃材置き場は丹波が目が覚めた時と変わった様子がない。相変わらず埃っぽい。錆びて寂れた印象のある忘れて去られたような場所。物音もしない。言い争う声もしない。誰かの声すらしない。気配もない。本当にいるのだろうか。小西の見当違いの可能性も十分にあって、だとしても怒ることはない。
「かい、と」
微かな音がした。呼ばれた気がした。空耳かも知れない。幻聴だろうか。
「かいと、」
今度はしっかりと聞こえた。この声の主を知っている。
「巴ちゃん?」
積まれたコンテナの陰から足が見える。
だが花塚の靴ではなかった。息を飲む。制服ですらないかった、横たわる2人の身体。頭部から血を流す彼等は有村と大迫。だが声の主ではない。
「こっちだ、ばかいと」
振り返る。丹波が背を向け壁際に座り込む花塚の姿。積み上げられ塗装の剥げたコンテナと壁に身を預けている。
「巴…ちゃん?」
シャツが赤い。身体に妙な突起がある。鈍く光る無機質な物が脇腹から生えている。砂っぽい床は真っ赤に染まり、スラックスは怪しく光る。
「生理じゃ、ねぇよな…?」
引き攣った笑みしか浮かばなかった。出てくる言葉はろくでもない。
「今救急車呼ぶから、」
端末を探す。だがその手を握られ、握り返した。
「はは、ざまぁねー、な…」
花塚の手に挟まれる。べったりと赤を塗り付けられる。それは渇きを知らず照っていた。
「頼みが、あんだ…」
首が据わらないのか壁に後頭部を委ねている。天井を見つめている。言葉か続かない。
「巴ちゃん」
虚ろな目がきょろきょろと泳ぐ。生温かい手が痛いほど強く丹波の手を掴む。片手で落とした端末を拾う。息をするのも苦しそうに、白くなっていく唇が小さく動く。
「かいと、たのむ…」
がちがちと歯が鳴った。寒いのだろうか。拾い上げた端末ごと花塚が掴み直した。今すぐに通報しなければならないと分かっているくせに花塚の意志に気圧される。
「ばんりを、たのむ…ばん、」
目蓋がゆっくりと閉じて、またゆっくりと上がる。
「ばんり…おれのこ……かばっ…くれ、から…」
「そうだな。小西もあんたを心配してる」
「うらぎ…ない……、ばん…」
ゆっくりとまた瞼が下がる。蒼白くなっていく顔色。
「巴ちゃん、分かってっから、手ぇ放せ…」
振り解こうと思えば振り解ける。だがこの花塚の手を振り解くことが丹波には出来なかった。
「ばんりの、こと…」
「とも…ちゃん…」
目元が微かに攣って、そして瞼は閉ざされる。微笑んだような気がした。だが気のせいだろう。
「巴…」
望み通りその手は放された。真っ赤になった両手がスラックスの上に力無く落ちている。重力に逆らうことはなかった。
好きならなんで、任せるんだよ。
手の甲が真っ赤に染まった。皮膚の表面に沿ってペンキのように割れていく。汚れた端末。頭の中ではただ恨み言がつらつらと並んだ。
万里を頼むってどういうことだよ。
丹波はずっと考えていた。ベランダの手摺りに腕を乗せ、答えの出ないままじっと南側の住宅地を見つめる。花塚の告別式と葬儀の日は自宅謹慎だった。おそらく丹波の精神面への配慮だったのかも知れないが、丹波には必要なかった。普段と変わらず家族と会話し、普段と変わらず飯を食い、普段と変わらず眠りに就いた。
葬儀には花塚のいた科2クラスの学級委員男女の4人が行ったらしい。悔しさや空しさはない。葬儀や告別式というものに丹波は意義を見出せなかった。棺の中で眠る姿を見せられて平然としていられるかも怪しい。そして大きな負い目を覚えるだけだ。花塚の腕を振り払うことがどうしても出来なかった。仮にまたあの時に戻されてもおそらくは。
小西と会ったのは自宅謹慎2日が過ぎてさらに2日後。廊下だった。生徒1人が死んだくらいで、高校の日常は何も変わらない。ただ後ろから呼び、ふざける相手がいなくなっただけだ。そして昼に隣にあった姿と、帰りに乳繰り合う相手を失っただけ。日常は変わらない。
「海都…ッ」
怯えた目が丹波を捕らえる。首の噛み傷は瘡蓋になっている。頼むと言われた相手だ。
「大丈夫か」
小西が目を瞠る。お前が言うなと言わんばかりだった。
「海都は、大丈夫?」
地元新聞に載ってしまった。本名は載せられなかったが。気を遣われるのが苦痛で丹波はいつも通り振る舞った。そうすればクラスメイトたちもなるべくいつも通り接した。触れてはいけない暗黙の空気には見ないふりをして。
「小西」
託されてしまった小西だけが同じ世界の住人のような気がして、その他の人たちがまるで全く知らない人たちに変わってしまった気がした。人目も憚らず小西を抱き締める。小西の中にしか彼がいない。
「海都?」
見た目よりも小西はずっと細かった。痩せたのかも知れない。小西を腕に収めて、花塚との体格の差にやっと想い人になりかけていたけれど認めようとしなかった想い人が亡くなったことをきちんと理解した。
「海都、泣いてるの?」
「泣いてねぇ」
好きだった。好きになっていた。調子のいいところ。地頭はいいところ。顔がかっこいいところ。ころころ変わる表情と声音。小西への恋慕を吐露する姿。触れ合った唇。絡んだ指。減らない口。言葉の足りない確認。託されてしまった想い。
瓦解する。隠しきれない。誤魔化しきれない。浅い息が漏れていく。肩が上下する。呼吸をしているのに酸素は入ってこない。ぼろ、と睫毛を呑み込んで頬を伝う。鼻の奥が染みた。
「海都!」
引き摺られる。足がついていく。下駄箱前の自動販売機が置かれた多目的スペースは狭いが椅子が置かれている。そこに座らせられた。そこで息を落ち着ける。ぼろぼろ溢れて止まらなくなった感情が渦を巻いて、途切れるまで喉の奥に漏れ出る声を押さえ込む。小西が離れたことも気付かなかった。ある程度落ち着く頃にはチャイムが聞こえていた。だがどうでもよかった。
「飲める?」
半分朦朧とし半分鮮明な意識にふらふらと差し出されるままストローを食む。りんごの甘酸っぱい味がした。背中を摩られ、されるがまま呼吸の足らない頭が眠気を誘う。
「小西、」
「どうした?」
まるで夢の中にいるようだった。感覚はあるが鈍い。
「小西のこと、頼まれたんだ」
小西は顔を曇らせた。まだ手を強く握られているような気がしてならない。べったりと暗い赤のペンキが手の甲に塗りたくられているような錯覚さえある。
「巴に?」
「小西のことしか、あいつ、言わねぇんだもん」
仕方がない。開き直るほどに利用していたのだから。小西が好きだということを分かったうえで付き合わせたのだ。
「…それは、」
小西が俯いた。
「おれが海都のこと、好きだからだよ」
まだ涙から一粒二粒と落ちていく。
「訳分かんねぇよ、なんだよ、それ…」
目元を拭う。震える唇を噛み締めて嗚咽を呑む。
「おれの好きな人は海都だから…っ」
交わした会話が蘇る。もう終わったことで、あの声で繰り返されることはない。そして投げられた問いに丹波が正確に答え直すことも。
「言わなきゃ、良かったんだ…」
ぐしゃっと紙を丸めたように小西は顔を皺くちゃにした。丹波は小西の肩に手を伸ばす。頼まれた。そういう顔をさせたいわけではなかった。まるで呪いだ。
「そういうことかよ…」
遅すぎた。だが好いてしまった。
肩を落とす小西を強く抱き締めて、不甲斐なさに泣いた。何も気付かなかった。
「小西…くれよ…小西を俺にくれ…ッ」
託されてしまった。だがここに縋るしか、もう彼を感じる術 がなかった。
あの時理解出来なかった彼の言葉がすんなりと繋がっていく。好こうとしたわけではない。好かれようとしたわけではない。ただ当然のように居場所になっていた。
「もう兄貴に抱かれんの、やめろ」
ベッドに倒れた小西のシャツを割り開く。鎖骨付近に薄く散った鬱血痕をひとつひとつ押していく。首筋の噛み傷は治りかけている。
「もう、兄さんとは…何も…」
小西がシーツを掴む。小西の部屋だった。屋根裏部屋だ。天井の小窓から入る妙な明るさ。
「もう兄さんは、おれに興味、ないから…」
「ずっと、あの2人に、また…」
丹波が黙ると小西は言葉を続けた。シャツのボタンを全て外す。震えて、固く緊張している。胸の周りにも執拗な痕跡が散りばめられている。検分するように眺めていると、弱い手が肩を押す。小さな拒絶。
「海都…やだ…、」
形の良い臍の周りにも消えかけの薄紅が点々としている。薄い下生えに続く下腹にも付いている。彼はこれを見たのだろうか。
「どうしたらいい?俺はもう小西のもんだから」
小西の手が遠慮がちに丹波の顎を掴む。かさついた唇に迎えられた。
「舐めさせて」
想い人と認められなかった想い人を失くして間も無い。性には淡白なほうだったが小西の手が求めるように丹波前に触れた時、甘やかな痺れと胸を裂くような痛みに襲われた。身を起こした小西は慣れた手つきで丹波のベルトを外し、スラックスの前を開いていく。何の反応も見せていないそれにわすがに眉を下げて、躊躇いなく舌を伸ばす。丹波は情けなくなって、胸が沁みる。だが物理的な刺激の前に下半身は重くなる。芯を持ち、固く張り詰める頃には小西は喉奥まで咥え込む。時折苦しそうに呻くが、恍惚とした細まる目元は紅潮していた。
「こに、し…っ」
喉の奥がぐっと締まる。丹波は眉根を寄せた。だが吐精する前に小西は口から出した。深く口付けた時のように丹波の屹立と小西の唇を透明な糸が結ぶ。ぷつりと切れた。
「挿れて…海都、」
小西は下を脱ぎ捨て、腰を上げる。少し腫れ、充血した蕾を自身で撫でた。
「小西、」
「お願い…そのまま…ほしい…」
くるくると指が色付いた窄まりの形をなぞり、丹波を誘う。慣らしていない。蠢いて、丹波は目を逸らした。脳裏に浮かぶ、死んでしまった交際相手の無邪気な姿に自罰的な感情ばかりが湧き起こる。小西の尻を掴んで一気に穿つ。
「あ…っ、あぐ…っふ、」
ぱたぱたとシーツに落ちる白濁。
内部に擦り上げられる快感に比例して胸が苦しくなった。あの男が好きだと言えなかった。言ったつもりで、冗談と化す。楽しかった日々。短すぎる間だった。ふざけあった友人から形式的な恋人へ、そして中身を伴うなど。
「っあ…っ、噛んで…噛んで海都…ぉ」
小西の肩にも付いているいくつもの歯型。言われるがまま犬歯を突き立てる。皮膚に落ち、弾かれた水滴が汗なのか汗でないのかも分からず腰を打ち付ける。小西の中が強く丹波を引き絞って、脳が沸騰しそうだった。既に未来の望めなくなった相手との会話、姿、感触が綯交ぜになって、頭と身体が別の生き物になり、そこに丹波の意思は介入出来ず、丹波自身、自分の意思が分からなくなっていた。
「あん…っん…ああ…あっ、やぁ…」
小西を揺さぶる。あの男とは違う。
「くれよ、あんたを。じゃなきゃ…」
あの男が苦しそうに男根を迎えた時のことを思い出す。踏み台にしろと言った。小西の気持ちを知っていて。だが、丹波を見るとあの男は言った。小西のことは忘れると言ったくせに。
結局忘れてねぇじゃん…
「海都…、海都…ずっと好きだっ、た…ずっと…」
悲しいと思った。何が悲しいのかは分からなかった。
鎮痛Breaker.
→後書き
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