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第1―4話
羽鳥は一人パソコンに向かっていた。
もうフロアの大半の照明は落ちている。
エメラルド編集部で残っているのも羽鳥だけだ。
柳瀬と話をしてから一週間が経つが、吉野には会っていないし会話もしていない。
用件…と言っても全て仕事絡みだが、メールとファックスで済ませていた。
それ程、柳瀬の話は羽鳥を打ちのめした。
吉野が羽鳥を気遣って、具合の悪いことを隠していたのは理解できる。
けれど感情は違うと叫んでいる。
その時、自分は確かに吉野の為に動けなかっただろう。
けれどその事実を知ってさえいれば、校了明けに吉野の世話を柳瀬と替わることも出来たのだ。
普段、吉野が羽鳥に依存し過ぎていると言ってはばからない柳瀬の、吉野への献身ぶりが胸を抉る。
それ程、吉野の具合が悪いのかと。
そして吉野がそんな柳瀬を当たり前に受け入れていることも。
だが事実を知った今、羽鳥は吉野の恋人として柳瀬に感謝を伝え、役割を代わるべきだろう。
でも、吉野に、会えない。
会う勇気が出ない。
柳瀬が話した内容で本当に羽鳥をどん底に突き落としたのは、
「千秋はな、お前が怖いんだよ」
という一言だった。
吉野が自分を怖がっている。
自分と二人で話せば、丸め込まれると怖がっている。
それこそ逆に羽鳥を怖がらせた。
もし吉野にそんな素振りを見せられたら…自分は普通でいられるだろうか?
羽鳥は吉野が好きだ。
一点の曇もなく、吉野だけが好きで、物心ついた頃から自分の世界の中心にはいつも吉野がいた。
そして28年間片想いをし続けて、やっと恋人になれた。
だけど始まりは羽鳥の暴走だ。
警察に突き出されてもおかしくないことを、世界で一番大切で、世界で一番好きな人にしてしまった。
けれどそんな自分を吉野は受け入れてくれた。
あの土手から見た花火と、その後ずぶ濡れになったことは一生忘れられないだろう。
そうして恋人同士になれたのに。
その恋人を怖がって自宅ではなくわざわざ外で会い、あまつさえ柳瀬という護衛まで引き連れて、たかが内輪のクリスマスパーティーの話をする。
そこまで自分は怖がられているのか。
羽鳥のデスクの上の拳がブルブルと震える。
それは―――恋人じゃないだろう。
今まで考えないようにしていた言葉が、ストンと心に落ちてきた。
それはオーバーワークのせいで廻らない頭のせいかもしれないし、殆ど社員のいない薄暗いフロアの非現実的な雰囲気のせいかもしれない。
そうか…俺はいつの間にか
――吉野の恋人じゃ無くなっていたんだ――
羽鳥は機械的な動作で作成途中の企画書に保護をかけ、パソコンを落とした。
別に仕事に追われて残業していた訳じゃない。
家に帰りたくなかっただけで、先の先までの仕事をこなしていただけだ。
羽鳥がコートを羽織り、ビジネスバッグを掴んだ時、スマホが鳴った。
この音は電話の着信だ。
羽鳥の担当作家は今、みんな問題無い筈だが、作家というものは突然の不調など日常茶飯事だ。
羽鳥はコートのポケットからスマホを取り出して目を見張った。
吉野の名前が表示されている。
羽鳥は慌てて通話をタップする。
『あ、トリ?俺』
羽鳥はなんて甘い声だろうと思った。
鼓膜が溶けそうだ。
「どうした?
お前から電話なんて珍しいな」
思わず素っ気ない言い方になってしまう。
『う、うん…あのさ…』
吉野は照れている時の癖で、なかなか話が進まない。
その時、羽鳥は爆笑したくなった。
自分の愚かさに。
自分を怖がっている相手が何を照れるというのだ。
だが、次の瞬間、羽鳥は今までグズグズと臆病者の理論を捏ねくりまわしていた自分に、爽やかな風が駆け抜けたのを感じた。
『トリ…会いたい』
吉野の少し甘えた声。
この言葉だけで、どん底なんてはい出してみせる。
「分かった。今行く」
『え…今日はもう遅いし…明日で』
羽鳥は吉野の話の途中で通話を切った。
足早に丸川書店を出る。
北風が容赦なく羽鳥に吹き付ける。
羽鳥はもっと冷たく吹き付ければいいと思った。
そうしてドロドロとした醜い感情を凍らせ、粉々に吹き飛ばしてくれればいい。
羽鳥はただひたすら駅に向かって走った。
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