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(3) 磨墨

俺をお姫様抱っこした時政様が、華麗に着地する。 グァリリィィーンッ! 轟音を上げて、先刻まで俺の立っていた床が割れたのは、ほぼ同時だった。 蹄がクレーター状に、床をえぐっている。 「なんでッ」 今にも胸ぐらをつかみかからんばかりの勢いで、俺は時政様に食って掛かった。 「どうして邪魔するんだッ」 確実に仕留められた。 暗器が馬の前脚を刺し貫く事ができたはずだ。 時政様さえ邪魔しなければ。 「……怪我をしている」 ペロリ、と…… 俺を抱えたまま。 熱い舌先が頬を舐めた。 唇に近い場所。 にじんだ血を舌が舐めとった。 ……さっき、折れた氷柱の破片が掠めたところだ。 (でも、こんなのっ) 凶悪な暴力に等しい。 (だって……なにも言えなくなってしまう) 甘美な暴力だから。 血の味を名残惜しむように、肌から唇が離れていった。 ようやくそこで息を吐いて、俺は声を取り戻す。 「怪我なんてっ」 氷柱が掠めただけだから、大した事ない。 そう告げようとしたけれど。 「怪我をしているだろう」 声を…… 唇を被せられた。 その声とは真逆の、獰猛な唇が呼吸を奪う。舌を絡めとって、口内を蹂躙(じゅうりん)する。 カラン、カラン 「っツ」 意地悪な唇から解放されて、同時に両の(かいな)から下ろされた体に痛みが走った。 乾いた音を立てて、右手から柄が滑り落ちる。落下した衝撃で、氷柱の針が割れてしまった。 「痛めているな」 背後にそっと、声が落ちた。 右の首筋から肩口に、吐息を吹きかけられた。たったそれだけの刺激で、ビクンッと反応してしまう。 「これはっ」 「痛めたのは、奴を持ち上げようとした時か」 「ちがうっ」 「お前の腕力で、あの巨体は持ち上がらない」 「だから、ちがうっ」 ちがうんだ! ……例え、そうだとしても。 肩を痛めていたとしたって。 時政様に、務めを奪う権利はない。 「ここは、俺の居場所なんだ」 ここで、時政様を護る。 時政様に逆らう敵を撃退する。 「これが俺の務め」 キラリ。 闇に光が(うごめ)いた。 「あなたを護るために、俺がいる」 生きている。 この命は、あなたのために……… 「姫に捧ぐ刺献華(ブラッディ・メアリー)《篠突く雨》!」 キラン 氷柱がきらめく。 天井で。 黒馬の蹄が吹き飛ばして、天井に突き刺さった氷柱が、針の矢の如く。雨の如く。 頭上から降り注ぐ。 逃げ場はない。 だが、これでは…… (致命傷にならない) 筋肉の鎧が阻む。 針が筋肉を通らない。 (やはり!) 暗器・姫に捧ぐ刺献華(ブラッディ・メアリー)で直接斬撃を。 (与えなければ、あの化け物は沈まない) しかし。 それなのにっ。 「グアゥッ」 苦痛にうめいた唇が歪む。 (どうしてっ) あなたは、どうしてっ。 「俺のっ……邪魔をするんだァッ」 膝が崩れる。 伸ばした手は、あと数センチ。 銀のきらめきまで、もう少し……なのに。 床に()せる暗器に届かない。 (わざとだ) 背後から。 傷ついた右肩を強くつかんで、わざと。 (時政様は、どうして) 俺は、護りたい人に邪魔されるんだ? (どうしてっ) そして、ハッとした。 根幹にある時政様の思い。 それは、俺なんかじゃ取り除く事はできない。 触れる事さえ叶わない。 (だったら、最初っから……) 無理じゃないか。 (時政様は、もう…………) 「お前にアレは殺させない」 降りかかる声の先に、馬が嘶く。 (そう、か) やっと理解した。 あの馬は…… (ミヤコ)で夜を共にした姫から、贈られた馬だ。 だから、時政様は馬を守る。馬を贈った姫様の気持ちを守ろうとする。 (そっか……) この胸の中に渦巻く、黒い気持ちは嫉妬なんだ。 俺、やきもち妬いてる。 口ではお役目だとか、務めだとか。 時政様を護りたい、とか言ってるけど。 結局は只の嫉妬で、時政様と姫の関係が壊れればいいと願ってる。 だから、俺は馬の前に立ちはだかって。 でも、もう………… (時政様は、もう手の届かないところにいる) 俺の気持ちの届かない、ずっと遠く………… 「みつ輝、顔を上げろ」 イヤだ。 せめてもの抵抗だ。 崩れた体を床に突っ伏して。こんな顔は見せられない。見せたくない。惨めすぎて。 俺にだってプライドは残っている。 だから、せめて。 時政様の言葉には従わない。 「顔を上げろ」 髪を吐息が掠めた。 すぐそば……手を伸ばせば触れられるほど、そばで…… 時政は(かが)んで。 「私の命令には絶対遵守だ」 クイッと、秀麗な指先が顎を持ち上げた。 そのまま…… 唇を塞がれてしまう。 息も忘れて、呼吸すら奪われて……… ようやく離れた唇から、唾液がつぅっと透明な糸を引いた。 「お前の嫉妬さえ嬉しいと思うほどに、私はお前に惚れている」 (えっ………) それじゃあ。 まるで…… 俺が、時政様を好きで。 時政様が、俺を好きで。 両想いみたいじゃないかーっ! (でも、時政様は馬を守っている) 京の姫が贈った馬を。 俺の邪魔をしてまでも。 (どうして) 矛盾している。 理由がつかない。 「迂闊(うかつ)だったな。アレは私に放たれた刺客ではない」 「えっ」 禍々しい殺気を放つ黒馬が、カマクラ幕府執権・北条時政様を討つために放たれたのでないのなら…… 『死ねばいいのに』 不意に。 声は脳裏に響いた。 邪悪な《思念》 女の声…… 「アレはお前を殺そうとしている」 ……であるが。と、時政が人差し指の腹を噛む。 指先から鮮血が散った。 「お前にアレを殺させたくはない」 なぜ? 俺を殺そうとしている化け物を、時政様は生かそうとしている。 惚れているなんて言うくせに、どうして矛盾した事を告げるんだ。 紅い血の結晶が、花びらとなって舞った。 桜のように。 「あんなナリでも元人間だ」 えっ。 (馬が……) かつては人間だった? 「お前に殺生をさせたくない」 血色の桜が輝いた。 かつて、日ノ本がヤマトと呼ばれていた時代。 言の葉には、御霊(みたま)が宿ると信じられていた。 無論、言の葉を形にした『文字』にも御霊は宿る。 かつて、ヤマトには御霊の宿る『文字』を自在に操り、現世(うつしよ)幽世(かくりよ)を行き来する一族が存在した。 彼ら一族が、黄泉国(ヨミノクニ)に渡る際に使用した『文字』こそ……… 『古事文(フルコトフミ)』 失われた究極の古代文字を、彼は今生(こんじょう)に蘇らせた。 禁断呪(じゅそ)《古事文》 最後にして最高の使い手・北条時政。 「お前は磨墨(するすみ)*にも遥かに劣る駄馬だ」 鮮血のにじむ指が、黒馬を差す。 血色の花吹雪が宵闇に踊る。 *〔脚注〕磨墨……『平家物語』宇治川の戦いで先陣を争った梶原景季(かげすえ)の名馬

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