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(6) 町は今、眠りの中

グラリと揺れた視界が、腕の中に吸い込まれていく。 温もりに抱かれて、俺は瞼を閉じた。 (時政様……) 声にならない胸の呟きは、彼に届いたのだろうか。 ぎゅっと。 抱きしめてくれる。俺の体を強く。 時政様の胸に(いだ)かれている。 たくましい両の(かいな)の熱が、俺を包んだ。 『アァッ、アアァァーッ!』 闇に悲鳴が轟いた。 『手がァっ、(わらわ)の手がァッ!』 白い手が赤黒い涙を流す。 ポタリ、ボタリと床に血溜まりをつくっている。 キラン…… 微かな金属音が、暗闇に爪を立てた。 わずかに開いたみつ輝の視界に映る、赤く濡れた針。 (俺の、姫に捧ぐ刺献華(ブラッディ・メアリー)……) 時政の口から吐き出されたのは、暗器・姫に捧ぐ刺献華(ブラッディ・メアリー)の一部……割れた小さな針だ。 床に落ちた針は、先端が血で濡れている。 (時政様は、口の中にこれを仕込んで……) 彼女の手に、口づける振りをして…… 姫を刺した。 「どうだ、偽りない我が『誠意』を受けた感想は。気持ちいいだろう?」 緋色の湖面が凍る。 それは、愛しき者への慈しみ。 愛しき者を傷つけた者への、憤怒。 双眼の深い緋色が激しく渦巻く。 『アァッ、アアァァーッ!妾の愛しい人よォォー!何故、妾を傷つけるッ』 ビシャウゥゥーッ! 空間が裂ける。 闇が牙を剥く。 彼女の細い体を覆う、金糸で織られたきらびやかな打掛けが舞い上がる。 暴風に煽られて、切り刻まれていく。 失われた時間を紡ぐかのように。 取り戻せない時を、嘆くかのように。 金の糸が、宙を漂った。 手の甲の血を吸い、金糸が赤く染まる。 やがて、糸は暗闇に溶けていく。 『貴方は、妾の愛しき人……』 …………………………だったのに。 疾風が床をえぐる。 否。 風ではない。 鱗だ。 硬質の鱗で覆われた尾が、床を穿(うが)つ。 『アアアアァァァアァァーッ!』 最早、男のものとも、女のものともつかない絶叫が轟く。 白い陶磁の手が、青黒い鱗に覆われている。 腕ばかりではない。 首も、足も。 顔も…… 唯一、唇だけが紅く…… 紅を引いた、女の姿を留めていた。 時政が跳躍する。 みつ輝を抱いて。 直後に足場が崩れる。 先ほどまで立っていた床が、空間の歪みに飲み込まれていく。 奈落に繋がる穴の淵に、ニョロリと伸びた尾が光を帯びて輝いている。 大蛇が一匹。 トグロを巻いていた。 美しい黒髪はもう、見る影もない。 姫は《(アヤカシ)》と化した。 ………否。 彼女は……… 「あれが本来の姿だ」 青い大蛇(オロチ)となった姫。 京の姫の正体は、妖魔であった。 「自分を捨てた男を思い続け、嫉妬の心が己を《妖》に変えてしまった事にも気づかずに、彼女は男を恨みながらも、男を思い慕い続けていた」 腕に抱くみつ輝の耳元で、時政が囁く。 「彼女の心に付け入ったのが、京徒だ」 「京徒……」 みつ輝が反芻(はんすう)する。 千年王城(せんねんおうき)・京都に君臨する(ミカド)を信奉し、京都を支配する。 京都の守護者にして、帝の忠実なる(しもべ)。 彼ら、帝の使徒を『京徒』と呼ぶ。 京徒の目的は、討幕。 カマクラ幕府の滅亡だ。 カマクラ幕府を滅ぼして、時代をカマクラ幕府成立以前……帝が日ノ本全土を統治していた御世に戻す事である。 (そんな事させない) カマクラ幕府は、亡き頼朝公が築いた理想なんだ。 今はまだ、理想に届かない事だって多いけど。それでもっ。 (皆の思いの宿る、この場所で) 思いの集う、この場所で…… 理想に向かって俺たちは、一歩ずつ、前進している。 (壊さない) 壊したくない。 いま、カマクラ幕府を支えるのは、時政様だ。 将軍を補佐する執権として、時政様の執り行う(まつりごと)が、裏で画策する京の陰謀と渡り合っている。 カマクラ幕府の支柱は、時政様であるといっても過言ではない。 ゆえに……… 京は狙う。 時政様の命を。 青い鱗がのたうった。 男を思い焦がれた果てに、女は《妖》となり、そうして…… 京徒の陰謀の餌食となった。 京徒に、心の闇に付け入られて、時政様暗殺の刺客にさせられたのだ。 哀れだと思う。 でも。 だけど。 (渡さない) 時政様の命は奪わせない。 もう、あなたのような哀れな人を生まないために。 戦う。 俺は、カマクラ幕府御家人だから。 (護るんだ) 思いを未来に繋げるために。 (思いを) 時政様の思いを。 ………………ハッと。 握りしめた拳が震えた。 (俺は、時政様を……) 「私を、ひとりの(おとこ)として護ってくれるのか」 声は降り注いだ。 先ほどまで、意識を繋ぎ止めるだけで精一杯だった俺の体は、気づけば時政様を護るように、時政様と大蛇との間に立ちはだかっている。 (俺は………) 時政様を……… 失いたくない。 未来にいてほしい。 時政様のいる未来を求めたい。 (ただ、それだけ) たった、それだけの願い。 それだけだけど…… (譲れない願いが、俺の胸に宿っている) その時だった。 ぎゅっと。 背後から、俺の体は抱きしめられた。 「それでいい。お前は私を想え」 震える拳を体温で包まれる。 節張った大きな手が、俺の頬を撫でる。 チュッ。 音を立てた唇が、うなじに落とされた。 「お前が想うからこそ………」 チュッ。 舌が首筋を舐める。 「私は、この時代の悪になれる」

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