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(7) あの鐘を鳴らすのはあなた

疾風が渦巻いた。 大蛇の尾が(くう)を裂く。 バキバキバキィーッ! 風が床を切り裂いて、頭上に仄暗い闇を形成する。 「伏せろ!」 時政様の声で、俺はとっさに身をかがめた。 竜が堕ちる! ダウンバーストだ。 超下降気流が床を穿(うが)ち、木片が宙に舞い上がる。 「そこか」 時政は見逃さない。 強大な暴風を解き放つ瞬間、大蛇の胸の鱗が蠢いた一瞬を。 (あの鱗だけ、真っ黒だ) どす黒く……コールタールで固めたように濁っている。 (京徒に移植されたか) 黒い鱗が《妖》となった姫に残された理性を奪い、完全な妖魔に変貌させた。 ならば。 あの鱗を取り除けば、姫は…… 大蛇の姿から解放されるはずだ。 『グガガガガァァアァァーッ!』 咆哮(ほうこう)が轟く。 夜が悲痛な叫びを上げて、()いている。 疾風をまとい、大蛇が突進する。 紅を引いた唇が裂けた。 噛み殺す気か。 (だが、そう易々と) 「この命をくれてやる気はない!」 時政が闇色に薄く輝く鱗に、手を伸ばした。 その時だった。 「俺は、あなたとの未来を求めてるんだ」 伸ばした手に、手が重なった。 だから…… 今も。 この先も。 「いっしょにいたい!」 強く。 きつく。 離さない。 この手を。 互いに強く結ぶ。 指と指を絡めて。 (時政様……) 俺たちの求めるものは、同じだね。 握り合った拳を振りかざした。 大蛇の黒い鱗に向けて。 『ギィガアァァァーッ!』 奇声を発して突っ込んでくる大蛇の胸に。 二人の拳を埋めた。 「壊れろォォォーッ!」 拳と鱗がぶつかる。 『ギィヤアァアァァーッ!』 甲高い叫びが夜を裂く。 なんという硬度だ。 黒い鱗は邪悪な《思念》を持っている。いまや、悪しき《思念》に大蛇自身をも引きずり込まれている。 大蛇が…… 姫が…… 苦悶している。 (この鱗を壊さなければ) 終わりなく、果てしなく(めぐ)る苦痛から、彼女を救えない。 『グァウウウァゥウーッ!』 ビシャウッ! (しまったッ) 油断した。 苦悶にのたうつ大蛇の尾がッ。 側面を這い、地面を穿ち、槍の穂先なって疾風ごと空間を裂く。 (突き刺さるッ) 心臓めがけて、尾が迫る。 狂暴な槍と化した尾をかわす時間を逸した。 鼓膜が、嫌な風の音を聞く。 凶器が目の前に迫った。 刹那。 「簡単にくれてやる気はない」 風が止んだ。 「みつ輝は既に我がものだ」 強堅な尾を、時政が受け止めている。 だが……… 「時政様ッ!」 腕が真っ赤だ。 おびただしい量の血液が、左腕から噴き出している。 しかし。 彼は笑った。 「ちょうどいい」 血が。 腕を流れる鮮血が、花びらを(かたど)った。 これは、大いなる予兆だ。 彼は使う。 失われた禁断の呪詛を。 「私のものは、何人たりとも奪わせん!」 飛び散った血液の飛沫が、紋様を描く。 肩を。 腕を。 胸を。 頬を。 「《古事文》」 緋色の陰影が、全身を覆っていく。 (俺は……) なにも怖くない。 (時政様がいてくれるから) 「迷わず、未来に手を伸ばせる!」 バリンッ! 黒い鱗が砕けた。 大蛇がのけぞる。 刹那、ハラリと黒髪が揺れた。姫の美しい髪だ。 「元の姿に戻った……」 ………………だけど。 彼女は《妖》……………… もう、元の人間に戻る事はできない。 「送ろう」 彼女が慕い続けた男への無垢な想いも、嫉妬も、羨望も、遺恨も、愛情も。 思いのすべてが、彼女の生きた証だから。 思いのすべてを、彼女と共に送る。 黄泉へ。 生きた者がたどり着く、最期の場所。 生きたからこそたどり着ける、終焉の地。 「安らかなる死を」 血色の花が舞い踊った。 高く、高く。 遥か彼方、遠い遠い頭上の更に上にある死者の国への門を。 いま、開く。 見よ、 闇に舞い散る命の煌めきを。 刻め、 貪欲なる命の熱を。 ……根之堅洲國(ねのかたすくに)まで。 生きた証を語り続けよう。 死と生は繋がっている。 想いが語り継がれる限り、 想いと共に生き、時代が築かれていく限り。 その死は生きる。 …………………………消えはしない。 噴き上がった花が、彼女を包み、舞い散り、舞い躍り、巨大な鐘を形成した。 花の梵鐘(ぼんしょう)の中に、姫はいる。 乱舞する血色の桜花は、まるで鐘を燃やす炎のようだ。* 不意に。 吹き荒れた風が花を縫い、鐘を鳴らす。 せめて…… 姫の最期は安らかであらん事を…… (くれなゐ)の桜花が彩る輪舞。 *〔脚注〕『道成寺』参考

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