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(8) 純粋理性批判

桜の陰が(ほころ)びた。 ひらり…… 朽ちゆくひとひらの雪は、宵闇に溶けて消える。 それは、本当に雪だったのか。 それとも、桜の花が魅せた幻だったのか…… 音もなく降る桜の影を、男は映している。 左近の桜。 紫宸殿(ししんでん)の奥、帝の庭に鎮座する、孤独な樹を…… はらり。 影が舞う。 薄紅色の花弁を携えて。 はらり、はらり……と。 音もなく揺れる樹は囁いた。 「術後の経過不良……といったところですか」 桜の幹の(たもと)に、ひとり。 青年は立っていた。 「貴公らしくない……いや」 白い首をわずかに振った。 「貴公らしい……どちらなんでしょうねぇ」 フッと口許、小さく笑んだ吐息が、絶え間なく頭上から花びらを撫でて溶ける。 「さて。なんの事だ」 「理論上」 彼は、頭上を振り仰いだ。 「止まっている物体に力を加えなければ、物体は止まり続け、動き続けている物体に力を加えなければ、ずっとそのまま、物体は動き続けま す」 「慣性の法則か」 「えぇ」 己が影に覆い被さる桜の影を、彼は仰ぎ見る。 「もしも今、ありとあらゆる力を取り除けば、桜は散り続けるのでしょうか」 はらり、はらり。 「運動を止める邪魔な力を排除すれば、理論上、(はな)は散り続ける」 はらり。 ……と、落ちる花びら。 薄紅(うすくれなゐ)は漆黒の陰をまとう。 「なにが言いたい?」 「ただの……」 影を追い、伏せた瞳をそっと細める。 「()れ言ですよ」 はらはら散る桜の黒い影に、花びらが吸い込まれていく。 戯れ言という名の……… 「私の求める理想の未来です」 大樹の影を、散る花びらが埋めていく。 舞い落ちた花びらを、再び木立の影が覆い尽くす。 空に、満月が輝いた。 「生も死もない世界」 「いえ。生と死が繋がる世界ですよ」 桜が散り続ける世界があるのならば、そこは…… 死の向こう側。 死を超越した、桃源郷。 おもむろに。 青年は着物の胸元をはだけた。 白い鎖骨が月光のもとで露になる。 そして。 「私は生きている」 鎖骨の下のやや左……心臓に寄り添ったその皮膚には、黒い鱗が埋め込まれている。 「なのにどうして、姫は消えてしまったんでしょうねぇ」 桜と月と、人と鱗。 「姫が消えて、なのに……ねぇ?どうして貴公は、私の前に立ってるんです?」 鱗と月と、人と桜。 刹那。 風が燃えた。

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