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(9) 実践理性批判
「卿 は、いま……」
光が欠ける。
不意に。
渦巻いた風さえ、飲み込んで。
満月が欠ける。
「私を殺そうとしたのか?」
欠けた月が、頭上からのぞいている。
まるで、桜の木立に絡みついた蛇のように。
月光が影を落とす。
「………この私が」
唇の端を、風が流れていった。
風が触れた口の端に、つっと青年は指をあてる。
風がトグロを巻いた場所に、男はいない。
青年の背後。
月の落とした影の中に、男は立っていた。
いつからか、男は立っていた。
「貴公を殺す」
はらり。
青年の影に、桜の花弁が吸い込まれる。
「……面白い冗談です」
「……で、あろう?」
月が喰われていく。
「初めて見ましたよ。貴公の笑った顔を」
「私自身もすっかり忘れていた」
「そうでしょうね。私たちは所詮、烏合の衆に過ぎません」
大地の影に……
「お互いの事を、なにも知らない」
月が喰われる。
「我らは所詮、権力を求め、互いに蹴落とし合い、闘争を繰り返す同胞 に過ぎない」
帝に仕える最高位の権力『関白』に座すため。
共喰いをする蛇。
それが我々貴族であり……
共喰いする蛇の頂で、睨み合うのが……
京徒五摂家
「貴公の誤解を生んだ非礼は、お詫びいたしましょう。どうやら、鱗の制御が一瞬、外れたようです」
首元の黒い鱗を、指先がつうっと舐める。
「ただし」
唇にあてた指。
爪の先を、キリリと噛んだ。
「次に鱗の暴走が訪れた時は、制御するお約束はできませんが」
なにしろ、我々は……
「共喰いする蛇、なのですから」
彼の影が、月の陰に溶けていく。
「己を過信しない事です。貴公についていく者は誰もいません。貴公も蛇で、ほかの蛇からすれば、餌に過ぎないのですから」
月の陰が、彼の影を喰い漁 る。
「せいぜい……」
声が鼓膜を掠めとる。
「京徒五摂家の名を汚さぬ事です」
月が濁っていく。
赤銅色に……
「ねぇ、近衛 殿?」
「忠告はそのまま、卿に返そう」
「貴公の忠言、今宵のところは有難く頂戴しておきますよ」
大地の陰 に沈む月。
ひとり……
京徒五摂家の一翼を担う彼が去った後も、はらり、はらりと桜は散る。
月の翳 る、暮れゆく世界で。
花は舞い散る。
赤銅の影をまとい、空から落ちた。
孤独なのだ。
人は、この桜の樹のように。
孤独だと認めるのが寂しいから、孤高にすげ替える。
大した差はなかろうに。
散る花が目に留まるのは、散っている間だけ。
地面に落ちた花弁に目をやる者は、誰もいない。
地面に落ちれば、見知らぬ誰かに踏まれるだけだ。
慣性の法則の理論に従って、桜の散り続ける世界を求める、鷹司 の気持ちも分からぬではない。
もっとも迎合する気はないが。
近衛は月を睨 めつけた。
木立から差し込む影を、男は双眼に映す。
蛇は、蛇らしく生きるのだ。
獲物を締めつけて、丸飲みする。
月を喰らうように……
月は喰らわれていく……
カマクラを京は喰らう。
命は刈らねばならぬ。
幕府の支柱となる命ならば、尚更。
「時政よ、貴様も見ているか」
今宵の月を。
陰に喰われていく月は……
「貴様だ」
月蝕の夜。
桜花は散る。
音もなく注ぐ桜雨……
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