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「はぁ、ん……ん、あぁ」
壱の部屋で、壱の息遣いが響き渡る。潤滑油のオイルを自身の指に絡ませて、壱の足の間に俺は手を忍ばせた。潤滑油が冷たかったのか、壱は俺が肌に触れると、びくっと一瞬だが身体を震わせていた。
「ん……」
尻へと指を這わせながら目的の場所へと徐々に移動させていく。壱の顔に目線を向けると、壱はきつく両目を閉じていた。そんな壱に顔を寄せては、頬にキスをして舌を這わせた。尻孔へと指を到達させれば、人差し指一本を指先だけだが侵入させる。
「んん……! ん」
人差し指をゆっくりとだが、確実に奥まで進めていくと、壱の中は熱を帯びていて、きつく俺の指を締め付けて来ていた。奥まで押し込み、指全体が入った事を確認してから、俺はその指の第一関節を、壱の中で曲げる。
「ふ……ぁん」
折り曲げると壱の中にしこりを見付けて、そこを何度も指で押すと、壱は指を締め付けながら声を小さく漏らしていた。頬から耳たぶへと、舌を這わせながら移動させる。耳の形を添うように丁寧に舐めながらも、壱が反応したしこりを執拗に指で押し続けた。
「み、み……、あぅ、きもちっ」
「耳だけじゃないだろ……?」
「うる、さ……あぁん……!」
耳を舐めつつも壱にそう呟くように問い掛けると、更に俺の指を締め付けてくる。否定しようと言葉を発する時に、俺はそのまま指の抜き差しを始めると、それに反応したように壱は声を上げた。潤滑油が手伝って、抜き差しはスムーズで時折、壱が反応するしこりを指で突き刺すと、壱は声にならない声を上げていた。
何度か抜き差しを繰り返しながら、指の本数を増やしていく。指を三本、壱が咥え込んでいる頃には、壱自身は硬く反り返って存在を主張していた。
「れ、い……、も……、だめ、はや……く」
壱は俺に向かって力の入らない腕を伸ばしながら、懇願するように目を潤ませながら訴えてくる。壱は俺を求めた。そんな壱の姿は、愛おしくてたまらなかった。俺は、頷いて答えてから指を引き抜いて、壱の両足の膝の裏を抱えて持ち上げ、自分自身を壱の尻孔へと宛がう。その様子を見上げている壱は、深く息を飲みこんだのが判った。
壱の中に自身が、徐々に入っていく感覚を感じ取りながら、身体を倒していくと、壱は両腕を広げ俺を受け入れていた。壱は、俺の首に両腕を回し抱き寄せてくる。ゆっくりと腰を進め、壱の中に塗りたくった潤滑油は、俺の侵入を手伝うように、動きを滑らかにさせていた。
「んん……、ん、は、……ん」
俺の腰が壱の股間につくのが判ると、壱は俺に目線を向けた。憂い帯びた壱の目線から、俺は離す事が出来なかった。奥深く壱の中で繋がっているのを感じて、俺はゆっくりと腰を揺らした。
―41―
「あ…! んん、あ……ぁ」
俺の腰が揺れるたびに、壱は声を漏らす。声を漏らしながらも、壱は自身の腰も俺の動きに合わせて揺らしていた。
「れ…い、んん、……あぁ、あ」
時折、壱は俺にキスをしてくる、俺はそれに答え唇を重ねる。ゆっくりと腰を揺らしているだけでも、その感覚に快楽を感じた。反り返っていた壱自身は、俺の腹に擦られて段々と硬くなっていく。
「……ん、壱……」
俺が壱と呼ぶと、壱は薄目を開き目元を緩めた。壱は、きつく俺を締め付ける。腰をゆっくりと揺らしながら、唇を何度も重ねた。壱の奥に当たるたびに、きつく締め付けられて、気が遠退きそうになった。
「れ……い、はぁ……、きもちっ」
あの時、壱は絶対に抵抗なんてしなかった。抵抗どころか、自ら腰を動かして快楽を求めてきた。俺にきつく抱き付いて、離れようとしなかった。動きはゆっくりだったけど、俺らは簡単に達してしまっていた。自分がしてしまった事に、俺は後で胸が締め付けられた。
なんで、あんな事をしてしまったのか判らない。俺以外の誰かと、と願ったのにそれを願い切れず、俺以外の奴と楽しそうに笑い合う壱を見て嫉妬をして、壱に触れずには居られなかった。腕の中に居る壱は、憂い帯びていて、綺麗で、愛しかった。何度も愛していると、言ってしまいそうになるのを口籠った。
あれから俺は、やってしまった後悔と、これ以上は踏み込んではいけないと、自分の心からの危険信号が身に染めて、壱からのラインもメールも着信も全ての通知をサイレントに設定した。
もう、これ以上、近寄ってはいけない。手放したくなくなる。結局、最後には壱夜を苦しめるだけだ。
この事が、壱の中で夢でも見ていたような、出来事になる事を俺は深く願った。この記憶が壱の中で、薄れていってくれないかと深く願った。俺という存在を壱の中で、深く刻まれてしまわないようにと、願わずにはいられなかった。
ごめん、壱……。こんな俺で、ごめん。もっと、強く、深く、壱を堂々と愛したかった。弱い俺で、ごめん。
―42―
あれから、数週間が経ったある日。学校の帰り道、駅の改札口で見覚えのある人物が視界に入ってきた。相手はまだ俺に気付いていない、俺ではない誰かを待っているのかもしれない。俺は気付かないふりをして、その場を通り過ぎようと歩き続けた。
「よっ!」
しかし、彼の横を通り過ぎようとした時、普通に声を掛けられてしまった。声を掛けてきた相手に俺は一度目線を向けるも、どう答えていいのか判らずに、そのまま立ち去ろうと歩みを進める。
「…………」
「あれ? 俺も無視しちゃうのか?」
ここまで言われてしまっては、返事を返さないわけにはいかない。俺は立ち止まりその相手に向かって、取り合えず笑みを向け答えた。
「久しぶりだな、渋基」
「久しぶりにさせてんの、零くんだけどな!」
そう、その相手はチームで一緒だった、暮井 渋基。こういう、付け入れ方は非常に上手い。
「一々、突っかかるやつだな」
改札口付近では、と思い、俺は目線で駅の構内にある広場へと移動を促す。
「そうやって、壱夜の事も避けてんのか?」
意図する意味を理解してくれたのか、渋基はそちらへと足を進めながらも、話し掛ける事は止めないでいた。
「そんなつもり……ないけど」
「この会話デジャブだわーー……」
「なんの用?」
広場に着き、そこにあるベンチへと腰を下ろし、話を聞く体制に入れば、俺は傍に立っている渋基を見上げながら問い掛けた。
「……壱夜の事、ヤリ逃げすんの?」
渋基も俺の隣に腰を下ろすと、直球的に問い詰められた。渋基が俺をわざわざ待ち伏せして会いにくる理由は、やっぱり壱絡みで、壱絡みと言えば、やはり、その話だった。話を聞き出すとか、そういうのが上手い渋基だ、きっと壱の口を割らせたのだろう。
「……」
「俺ね、壱夜に泣かれたの? 判る? 零が好きだから別れて欲しいって泣かれたの」
「え?」
「お前が、女の子と一緒に居るとこ見たあと、すぐに言われた」
壱があの時、渋基と別れたと言ってきたあの話は、嘘でも偽りでもなく、真実だった。俺は無駄に嫉妬をしてしまったという事か……。
―43―
「それで、今度はヤッたって聞いて、やっと付き合い始めたのかと思ったら、避けられてるって聞かされて、それ聞いた俺の気持ち判る?」
自分の好きな奴が、そんな扱いをされてしまったら、怒るのは当たり前で、渋基の気持ちは理解出来る。理解が出来るだけに、物凄く申し訳ない気持ちになる。
「……ごめん」
「零も壱夜の事好きなのに、なんでダメなんだよ」
「……ごめん」
俺は渋基に対して、謝る事しか出来なかった。俺が行った行為は、壱だけじゃなくて、壱を好きな渋基も傷を付けていた。俺は自分自身の不甲斐なさに、目頭が熱くなるのを感じた。それを堪える為、俯き目をきつく瞑る。その様子を渋基は視線を逸らさずに、俺を見てきているのには、視線を感じてなんとなく判った。
膝の上で俺は、自分の拳をきつく握りしめた。その握りしめていた拳を渋基は、指先で二度合図かのように軽く叩いてきた。
「零……、なんかあんの??」
渋基に目線を向けると、渋基は俺にそう問い掛けてきた。
お前は意味もなく、壱夜を避けたりする奴じゃない。壱夜よりも付き合いは短いけれど、小学からの付き合いなんだ。お前の事を判らないとでも思ったのか……。渋基はそう俺に言い聞かせた。壱の事も好きだけど、俺の事も別の意味で好きなんだと、一人で抱えるなと、そう言葉を繋げた。
昔から、渋基と壱と三人で馬鹿騒ぎをしてきた。俺ももちろん、渋基が嫌いではない、むしろ好いている。仲間だと思っている。渋基から掛けられたその言葉の数々は、今の俺の心を軽くさせてくれた。
―44―
長らく、渋基と久々に話をした後、俺らはそれぞれの帰路に着く為、駅構内の広場を後にした。渋基は駅まで自転車で通っている為、自転車置き場で別れる。
「あのさ……、零。壱夜に口止めされてんだけどさ」
別れようとした時、渋基は言いづらそうに、言葉を濁した。
「なに?」
俺は渋基が、何を言おうとしているのか見当もつかずに問い掛ける。
「壱夜、留学すること決まったぞ、チームのやつで」
「え?」
渋基が発した言葉は、一つ一つの単語として、俺の頭に刻まれた。言葉の意味は分かっているのに、頭が付いて行かずに、理解が出来ないでいる。
「海外のチームから声掛かってな、こっちでサッカーやらないかって」
俺は驚き、目を見開いているから、渋基はさらに説明を続けてくれていた。頭を冷静にさせて、俺は渋基に問い返す。
「どのくらい?」
「さー? 成功すれば、そのまま海外でプロになるかもな」
海外。留学。そのまま居なくなる。プロ。壱が居なくなる?
「…………そうか」
俺は平常心を装い、やっとの思いで渋基にそう言葉を返していた。手が震えているのに気付き、握りしめたが、震えは収まってくれることはなかった。
―45―
俺は部屋に戻ると、急いで窓から隣の家の壱の部屋を確認した。壱は幸い、まだ帰ってきてはいなく、カーテンは開いたままになっていた。窓から見える範囲で、壱の部屋を覗き込む。壱の机は、俺の窓からでも確認できる位置に置いてある。
覗いた壱の部屋は、最後に入ったあの時から、変わっていないことに安堵感を覚えた。安心して見るのを止めようと思ったその時、視界の端にあるものが映った。それは窓から見える範囲の一番端。ベットの足元に置いてあったそれは、旅行や合宿、チームの遠征等で壱がよく利用していた、黒い布製のキャリーバッグだった。
留学するのにその程度の荷物で済むのか……、いや、数日分の必要なものはキャリーで、残りは送ってもらう。そういう事もあり得る。そのキャリーバックは、物が入っているようで膨らんでいる。
「留学……するのか?」
俺は自分の窓のカーテンを閉めて、立ち尽くしてしまった。渋基が言っていた事は本当で、壱は留学をする。帰ってくるかも、判らない。この窓越しで、壱と会話をする事も、壱を見る事もなくなる。
「会えなくなる?」
いや……、ちょっと待て。これは俺が望んでいた事……。壱の記憶から、俺という存在が薄くなってくれればいいと、あの日から望んでいた事ではないか。このまま壱が海外に行けば、きっと連絡もしない。実家が隣だからたまには帰ってくるかもしれないけど、それを久しぶりと笑い合えるだけの仲になれるかもしれない。ましてや、壱が海外に行ってる間に、俺が居ないかもしれない。
そうしたら、もう壱の様子を見て、嫉妬して深く踏み込んでしまう過ちを起こさないだろう。刻々と俺の時間が終わるのを、遠くに居る壱を、俺だけが想って過ごしていけるかもしれない。それなら、最後に壱が苦しまないで済むんではないか。これは俺が望んだ事……。
「いや……、でも」
俺は眩暈がして、ベットへと横になった。天井を見上げ、壱が隣の家に居ない日々を想像すると、寂しくてしょうがなかった。ずっと天井を見ていた目からは、目尻を伝い涙が流れた。それはカッコ悪くて仕方がなかったけど、どうしても止める事は出来なかった。
―46―
その週末、壱があのキャリーバックを持ち、家を出たのを二階の窓から偶然見掛けてしまった。今日が旅立つ日なのか……。その光景を見たら、俺は何も考えずに、壱の後ろを尾行するように追いかけてしまっていた。
キャリーを重たそうに、引き吊り歩く壱。その様子を後ろから、ずっと見ながら追いかけて居た。壱の恰好は練習着で、チームのユニフォームではない。チームで、試合に行くのではないという事を思い知らされる。向かってる先はチームの練習会場である事は、道順で理解は出来てた。
ただ、チームの練習試合で何処かに出かけるのではないかとか、淡い期待を抱いて、壱を追い掛け歩いているうちにそれを確認したくなった。それに最後くらいは、別れの挨拶をしてもいいんじゃないかとか考えた。
渋基に壱の出発日を確認しなかったのは、壱に最後でもと会いたくなると思ったからだったけど、家を出るところを見てしまった。見てしまったら、考えてるよりも先に身体が動いていた。本当、自分は愚かだと思う。
「壱夜ー!」
練習場に近付くと、その場所から壱を呼ぶ声が耳に届く。その聞き覚えのある声は渋基で、壱を練習場で待っていたようだった。渋基は普通に私服でそこに居た。練習場の駐車場には大型バスが用意されていた。渋基の私服姿を見たら、チームでの試合ではない事は確信が持てた。俺は近くの建物に隠れてその様子を見ていた。
渋基の元へ壱が近寄ると、渋基は壱のキャリーバッグを受け取り、大型バスの方へと持って行っていた。その間にも、懐かしい面々が集まりでしていた。懐かしいかつてのチームメイト達。壱の他にも、二人ほどキャリーを手にしているチームメイトも居た。壱以外にも留学するメンバーが居るのだろう……。
皆と雑談を始めている壱は、行かないメンバーなのか私服のチームメイトと挨拶を交わし歩いている。暫くするとコーチが駐車場に出てきた。コーチが姿を見せると、皆コーチを囲み集まっていた。
コーチの話を真剣な様子で聞いているチームメイト。話を続けていると、壱や練習着を着ているチームメイトに視線が集中された。一人一人なにかを話すと、その三人に拍手が送られる。
「…………」
俺はその様子を、ただ建物の影から見ているしか出来ないでいた。最後だけでも話をしたい、これ以上関わってはいけない。そんな感情が、俺の胸の中で揺れ動いていて動けずにいた。
―47―
話が終わったのか、壱はチームメイトから離れて、先程キャリーを持っていた他の二人と共に、バスに向かい歩き出した。バスに乗り込む前に壱は一度立ち止まると、振り向いて渋基の元に歩き出した。なにやら渋基と話をすると、再びバスに向かった。そのままバスに壱は乗り込んで行った。
バスの中には数人何処からか先に乗り込んでいたのか、既に席に付いている者がいた。壱はバスの中の真ん中の通路を歩き、空いている席を探している。先に乗ったチームメイトを見付けると、そいつの隣に腰を降ろした。壱が席に着くと、バスはエンジン音を鳴らした。
バスから離れた場所に居る渋基は、バスを見送る体制に入っていた。そろそろバスが出発する時間なのか、バスを見送っているチームメイトの雰囲気がざわついていた。
バスはエンジン音を鳴り響かせながら、ゆっくりと走り出した。窓際に座っている壱の姿が、角度で見えなくなっていく。俺の足は無意識に歩き出していた。自然と俺の足は、歩む速度が早くなっていった。
「零!?」
バスを見送っているチームメイト達を横切ると、耳に渋基の声が届いていた。気付いた時には、俺は走り出していた。遠くなっていくバスを追い掛けて、夢中になって走っていた。
「い、……ち。壱!」
本来なら、このまま何も言わずに、別れた方がいいに決まっている。壱は何も知らずに、過ごしていくことの方が、壱にとっては幸せでいられる。でも、話さないと後悔するような気がした。壱に、話さなきゃいけないような気がした。
「壱ーー!」
「零!? だめだろ! 走ったら!」
こんなに走ったのはいつ振りだろうか、チームに所属していた時は、練習の時も試合の時も、いつも夢中になって走ってた。壱と一緒に、いつも夢中になって走っていた。こんなに走ったのは、チームを辞めて以来だ。
「壱! 壱ーー!」
バスの中の壱には、俺の声なんて届かないのは判っているのに、壱を呼ばずにはいられなかった。俺はバスを追い掛け、走りながら壱を呼び続けた。バスを追い掛けても、追い掛けても、追いつけない。追いつくどころか、距離は広がっていく一方だった。
俺は走っているうちに、段々と息苦しさを感じた。胸が苦しい。息が出来ない。身体中が、悲鳴を上げている。俺は胸の苦しさと、息苦しさで走る事が出来なくなり、その場に崩れ落ちた。地面に膝を付き、俺は苦しくなった胸を抑えた。
「お前、ばか……、走ったらこうなるの判ってただろ!?」
座り込んでしまっていると、渋基が俺の傍に寄って来て、背中を摩ってくれていた。息が苦しくなり、視界が揺れて見えなくなっていく。微かに映る視界の中に、小さくなっていくバスが見えた。
「く……るし、んん…、い、ち」
息がくるしくなり、言葉を発するのもままならない。自身の身体を支える事も出来なくなり、傍に来ている渋基に俺は凭れ掛かった。歪んだ視界が段々と暗さを増していく。目の前が見えなくなったと思ったら、渋基の叫ぶ声だけが頭に響いていた。
「薬は!!!?? 誰か救急車呼んで!!!!」
やっぱりちゃんと、壱に伝えれば良かった。俺も、壱が世界で一番大好きだって……。
―48―
あれは、高校に合格してすぐだった。休会中だったが、リハビリがてらにチーム練習に参加をして、家に帰った。最近ずっと、胸が苦しくなる感覚が増えてた。 気になって、病院に行った。
「心房中隔欠損症……?」
「それって……、心臓の病気って事ですか?」
一通りの検査を終えて、診察室に呼ばれ、母と一緒に医師の説明を聞いた。それは、今まで聞いた事のない病名だった。自分の知り合いにも、親戚にもそんな病名を患った人は、誰一人として居なかったから、初めて聞く病名だったのであろう。医師に告げられた病名を耳にすれば、俺と母親は顔を見合わせてしまった。
「先天性の心臓の病です。心房中隔に穴が開いている状態で、身体が育つにつれて、穴が塞がる事もありますが、逆に大きくなる場合もあります。お子さんの場合は後者ですね」
「それは……」
医師と母親は、自分の事を話しているのに、何処か他人の話をしているように感じていた。心臓の病気? だって、俺今まで、普通に過ごしてきて、不自由なく生活してきたのに……。病気なのか、俺。
サッカーだって、今まで普通にやってきたのに、なんで病気? どういう事なのか、頭がついていかなかった。それって、何? 重い病気なのか? 入院しなきゃいけないのか……? あれ……、ちょっと待って、それって……。
「サッカー……、サッカーは?」
病名を聞いた時、色んな疑問が浮かび上がった。浮かび上がったけど、一番聞きたかった事を、俺は無意識に医師に聞いていた。
「今の状態のままで続けるのは難しいです」
普段の生活をする分には問題はない。ただこれ以上穴が広がるのならば、手術を勧める。そう言った内容だった。普通の生活は出来る、普通の……。それは、運動には規制が掛かるという意味。もちろん、サッカーを続けるのは医師に止められた。
この時点では急いで手術をと、言い切られはしなかったが、あの日、壱と渋基をファーストフード店で見掛けたあの日は、定期診察の帰りだった。病気が発覚してから約一年、経過を観察して、穴は塞がるどころか、広がっていたという結果だった。走る事なんて、ままならないのが事実だった。
―49―
「れっ……、れぃ……零!?」
何度も、壱に呼ばれている気がした。壱の声が、頭の中に届いてくる。俺は閉じていた瞼を開いた。開くとそこには、見覚えのある天井が視界を奪った。その視界の中に、覗き込む壱の姿。その後ろには、渋基も心配そうに伺っていた。壱の目は真っ赤に充血して、涙で揺れていた。
「ん……、い……壱夜……?」
「れいーーー」
ここは、病院……? 真っ白な天井と、白い鉄柵のベッドの個室の病室。俺は、そこに横になっていた。俺は驚いて上半身を起き上がらせようと、身をよじらせるが、壱に思い切り抱き付かれて、そのまま、また、ベットへと身体を沈めてしまった。
「え? なに? なに?」
抱き付いてきている壱の背中を、ゆっくりと撫でつつも、俺の頭は今の状況を理解出来ないでいる。
「あー……良かったーー」
渋基は俺の様子を見ては、安心したように、ベットの傍にある椅子に腰を降ろした。俺、壱が乗ったバスを夢中になって追いかけて、走っちゃいけないのに全力疾走してしまって……。胸が苦しくなったんだ……。あの後……、俺倒れたのか……。
「なに? え? どうなってんの? なんで壱夜が居るんだ……」
そう、壱はあの時バスに乗って、出発したはずなのに、ここに居るのは何故……?
「……、零……ごめん。壱夜の留学の話、嘘」
「え?」
「え?」
渋基の言葉に、俺は思わず声を出してしまったが、それに被せるように声を出したのは、壱本人だった。壱も驚いているところを見ると、渋基単独の犯行……。
「ただの他県との交流会の県代表になって、この週末遠征に行くだけ」
「うん、遠征。騒がしいからバスから見たら、零が倒れてて、バス降ろしてもらった」
俺は完璧に騙されてしまっていたという事か……。
―50―
「…………、なんか、今日の事無かった事にして」
何をどうして、こうなったのか、理解したくない。俺はベッドの枕に顔を埋めて思わずそう嘆いてしまっていた。
「もう、壱夜にバレたから腹くくれよ」
渋基は俺の様子を見ながら、ベッドを起き上がれせ背もたれを作り、自然に俺が上半身を起き上がらせる形に作る。ベッドが動くたびに、耳元には軋む音が届いていた。ベッドを動かした事により、壱は俺に抱き付いていたのを離れ、俺はそんな壱に目線を送っていた。
「…………」
「……零の馬鹿、なんで俺だけ知らないんだよ」
壱は涙目のまま、俺を軽く睨みながら、そう呟くように問い掛けてきた。
「そ……それは」
渋基にも本当は、教えるつもりなんてなかった。でも、駅の広場で、渋基と話をしたあの日、何かあるのか? と問い掛けられて、俺は渋基に心臓外科の診察券を見せた。
「え? どういう事?」
渋基はそれを受け取ると、それに目線を釘付けにさせたまま、更に問い掛けられた。
「高校合格が決まって、直ぐに判った。心房中隔欠損症だって、心臓の中に穴あんの俺」
「え? これ、治らないのか?」
渋基が驚くのも無理はない、俺も初めて診断を受けた時、頭が付いていかないほど驚いたのだから。
「手術すれば……、ただ、ちょっと大掛かりな手術になる……」
「…………受けないのか?」
「ん……、怖くて。だから、辞めたくて辞めたんじゃなくて、サッカーが出来なくなった……」
話しながら震えている手を、渋基はゆっくりと撫でてきた。俺を安心させようとしているのだろう。
「……壱夜を避けた理由はなに?」
「俺と深く記憶を刻んでしまったら、俺が居なくなった時、その記憶が壱夜を苦しめてしまう……それが嫌だから」
俺にもしもの時があった時に、壱が一人で泣かないように。深く記憶を刻んでしまったら、その記憶が壱を更に傷付けてしまうのではないかと思ってたんだ。これが逆の立場だったら、壱がいなくなった世界で、俺はつらく悲しいから。そうさせたくなかったんだ。
―51―
「お前ら二人でちゃんと話しろ……、俺は零のおばさんに目を覚ましたの知らせてくるから」
渋基はそう言うと、病室のドアを開けて出て行った。残された俺と壱の間で、沈黙が続く。壱は先程まで渋基が座っていた椅子に座り、ただ下を向き俯いていた。
「…………壱夜?」
壱の頭を撫でようと手を伸ばすと、それを壱は掴んでそのまま、自身の両手で包み込まれた。壱は俺の手を強く握って来た。
「馬鹿じゃないの……、零」
「馬鹿って……」
俯いたままで壱はそう、確実に俺に届くように言葉を言い切った。
「お前ね……、何勝手に決めてんの」
「え?」
顔を上げると、壱は俺の目を真っ直ぐに見て、そう告げる。
「俺は、何も知らずにノウノウと生きて、お前が死んでから後悔しろっていうのか?」
「…………」
「お前に言いたいことも言えずに……、お前と一緒にやりたい事だっていっぱいあるのに……居なくなった後じゃ何もっ」
壱の言葉は、物凄く俺の胸を貫いていった。
「い……ちや」
俺の手を握る壱の手に力が込められる。
「一人で後悔だけしてろって言うのかよっ」
「ごめん……、壱夜」
壱は立ち上がり、俺の傍に近寄ると、俺の頬を両手で包み込み、額同士を触れさせてしっかりと俺の目を見る。その真剣な眼差しは、俺の好きな、試合に挑む時と同じ真剣な眼差しだった。
「零……、俺ね、大丈夫。零との思い出があれば、生きていけるよ、零との記憶があれば、愛されてた記憶があれば、俺、大丈夫だから」
「…………」
壱は目を潤ませて、言葉を繋げていった。その言葉は、俺の胸を熱くさせ、今までの不安とか恐怖、自分の愚かさ、全てを打ち消してくれた。
「だから……、手術受けて」
一滴の涙が頬を伝うのに気付いたが、俺は何も言えずに、壱に対して首を縦に振り答えていた。壱の願いを……、壱の全てを受け入れる覚悟を付けてくれた。
―52―
あの日から数日が経ち、俺は数日入院を余儀なくされたが、身体の調子が良く退院をすることになった。俺が手術の決意を決めた事を医師に伝えると、手術は春先に行うことが決まった。手術の日までは無理をしないように、医師に強く言い付けられたけど……。
今日は壱達が出場する試合の日。壱に見に来るように迫られて、試合会場に向かった。試合会場は、すごく懐かしい雰囲気を漂わせていた。それを見ると、やはり俺はサッカーが好きなのを思い知らされる。壱達が試合を始める前に着いていた俺は、事前の試合を見学していたチームのコーチと鉢合わせしてしまった。
しばらくコーチと話をしていたが、壱達の試合の時間が近付くと、コーチに連れられてチームメイト達の元に行かされる。壱の誘いを曖昧に答えていたせいもあり、俺が来たのが判った時の壱は、喜びでテンションが凄く上がったのが見て取れた。試合が始まると、俺はそのままコーチにベンチまで連れてこられてしまう。
「大丈夫なんですか、俺入っても」
「公式な試合でもないし、大丈夫だろ」
「ならいいんですけど」
ベンチに座り、コーチと話を続ける。ボールを追い掛けて走り回る壱の姿を見るのは、久しぶりだった。
「なにより、長谷川が居るとチームの活気が上がる」
「なんですかそれ」
コーチの言い分に、なんだか胸が暖かい気持ちになったが、照れくさくて笑ってしまっていた。
「それだけ長谷川は、チームにとって大事な存在だったって事だな」
「…………、またサッカーやりたいですね、俺」
チーム内で慕われていた事が判ると、やはりサッカーがやりたくなる。壱も渋基ももちろんだけど、チームメイトも皆好きで、このメンバーでまたサッカーがやりたい。
「高橋と暮井から手術決めたって聞いたけど」
「はい……、それでまたサッカー出来るようになるかは判りませんが……」
「今の医術は進歩してるから、期待してもいいと思うけどな、またチームに戻って来いよ」
戻ってこいの一言が、胸に染みわたった。俺は、コートに目線を向け、壱を追い掛ける。丁度壱がシュートを決め点数が入り、歓声が上がっていた。壱は俺の方を向くと、目線を向け、拳を空高くかざしていた。
「……ありがとうごさいます」
―53―
「れーーい! どうだった? 今日の俺!」
試合が終わり、身支度が終わるのを待っていろと豪語されて、俺は会場の外で壱を待っていると、壱は駆け足で俺に近寄り、開口一番にそう問い掛けてきた。
「壱、絶好調だったな」
片手の平を広げて向けてくるから、俺はそれに合わせて、音が鳴るように自身の手のひらを打ち付ける。これはよく壱と試合中に、点数が決まるとやっていた事だった。
「だっろう! 早くまた零とサッカーしたい」
自慢げな表情を浮かべれば、壱は持っていたカバンやサッカーボールを地面に放り投げると、俺の首に両腕を絡ませ抱き付いて来た。汗ばんだ壱の身体は、何処か良い匂いを漂わせていた。俺はそのまま、壱の背中に腕を回して抱き留めていた。
「ん……、がんばる、また一緒にやろう」
いつかの叶えられなかった、二人の夢を叶えたい。壱と共に、未来を歩んでいきたい。
「絶対に、来年は全国大会に行こうな!」
俺の限られた時間の道筋に、壱の時間の道筋が絡まり合い、そんな共に過ごす未来を歩んでいきたい。それがどんなに愚かで、淡い希望だったとしても。どんなに儚いものでも、希望を……、夢を忘れたくはない。
人は何故散り急ぐのか……。
初めから何もせずに、諦める事をしてしまうのか、それは皆、誰にだって弱いところがあるから。弱さに負けて、耐えられずに、諦めてしまう。
どんな状態だって、誰にだって、それがたとえ、大きな困難だとしても、乗り越える事は出来る。自分自身が諦めさえしなければ……。周りに居る仲間とか、愛してる人とか、頼ってもいいのだ。最終的に決めるのは自分だとしても、そこまでの道筋になってくれる。だから、決して初めから諦めてはいけない。希望はどんな時だって、それは小さいものでも必ず存在する。
「壱と未来を歩いていきたいから」
だから決して……。
―――――――散り急ぐな。
―54―
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