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その55よかったと抱き締めてあげましょう

(せん)」 誠太郎がその存在に気づいたように、急に現れた男の名前を呼んだ。呼び捨てにするということは、知り合いで臨賀会にも関係がある人物なんだろう。ニコニコと笑う茜の姿を見て、信之助は胡散臭く感じた。 笑っているからか、本心が何も感じられない。それがまた胡散臭くて、ほんの少しだけ怖い。 そんな信之助に気づいてか、佐久良がスッと茜から隠すように前に立ってくれた。 「お前が、猪原組を預かるのか?」 「厳密に言えば。でもね、誠太郎さん。俺が本当にほしいもの、知ってるでしょ」 茜の言葉で、この場の空気がガラリと変わった。誠太郎が茜にキツい視線を向け、柊が猪原を背に隠した。猪原組の組員も、猪原を隠そうと立ち上がる。 「お前のほしいもの、本当に俺が渡すとでも」 「渡しますよ。誠太郎さんは、島田組の、臨賀会のトップだ。仲間を裏切った者に甘い制裁を与えるとは思わない」 「そう、だな」 柊の後ろにいた猪原が、スッと立ち上がった。そしてゆっくりと茜の方に向かって歩き出す。 「行きますよ、俺。茜の元に」 そう言った猪原の身体は微かに震えていた。これが自分のやったことの責任だと、猪原の背中は語っていた。 そんな猪原を、組員は泣きながら引き留めようとしたが柊に止められていた。トップが決めた決断を、下の者が止めるわけにはいかない。それがどんなに辛いものであってもだ。 自分の元に来るのを自ら選んだ猪原を、茜はただ嬉しそうに抱き締めて受け入れた。その嬉しそうな笑みは、まるで子供のようで。佐久良の後ろからそっと覗いていた信之助は、少しだけ首をかしげた。 さっきはあんなに怖かった茜が、今はちょっとだけ子供っぽく見えて可愛い。 でもその可愛さが、危険なものだというのを信之助は知らない。 「じゃあ、俺達はこれで帰りまーす」 猪原の手を握って、茜はそのまま歩き出した。そんな2人の背中が見えなくなって、佐久良が口を開く。 「早いうちにどうにかして、猪原さんを茜から離します」 「頼んだ、佐久良。あの状態じゃ、俺はどうにも動けないらしい」 佐久良の言葉に、誠太郎が頭を下げた。自分の組長である誠太郎にならって、柊も頭を下げる。猪原組の組員は、土下座をする勢いで泣きながら佐久良にすがっていた。 そんな猪原組の組員の姿を見て、少しだけ心が痛んだ。もしあの時、自分がバカみたいに捕まっていなければ、こんなことにはならなかったのでは、と。自分を連れ去った猪原の自業自得だと簡単に片付くかもしれないが、信之助はそう感じたのだ。 そんな思いから、唇を噛み締めて下を向いた。信之助の感情の変化にいち早く気づいた佐久良が、信之助を抱き締めた。 「大丈夫。猪原さんのあれは、ポチのせいではないですよ」 「………………」 「こんな時に言うのもあれですけど、」 “あなたが無事でよかった” よかったとそう言った時、佐久良は抱き締める力を強くした。それを感じた信之助は、少し泣きそうになったのを隠すようにして首筋に顔を埋めた。 「俺も。信之助さんが無事で、本当によかったと思っていますよ」 佐久良に続いて、藤四郎も無事でよかったと信之助に声をかけた。誠太郎なんかは、泣きながらよかったと言っていた。 それがなんだか可笑しくて。信之助は、いつのまにか笑っていた。

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