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第12話

……ドクン。 「…………っ!」 間近に迫る、あまりに切なげな顔に。 唇で吐息を感じられるほどの距離で呟かれた、切実な声に。 心臓が大きく脈打った。 ………そんな顔、ずるいよ。 今すぐに、この声で先生の名前を呼びたい。 そんな衝動に駆りたてられて。 「……」 先生の言葉に答えようと、小さく口を開く。 けれど。 一音目を、声に出そうとすると、勝手に喉が閉まる。 ……僕、本当に喋ってもいいのかな…… 先生に求められる喜びと、喋ることへの不安。 それは、奇妙に、複雑に絡まり合って、どうしたらいいのかわからない。 先生を、疑っているわけじゃない。 ううん、むしろ、信じてる。 ーーーーー本当に? 当たり前だ。 ーーーーーじゃあ、何が問題なの? そうだ、信じているんだから、喋ればいい。 ただ一言、名前を呼ぶだけ。 そうでしょう? 「……綺羅?」 ほら、僕がずっと、何も言わないから、先生も訝しんでる。 はやく、声を出して、呼ばないと。 よばないと、いけないのに。 『その声で、喋るな!!!!!』 どうしても、そのこえが、あたまからはなれない でも、ちがう、あのひとと、せんせいはちがうのに こえが、でない。 「ハッ、ハッ………、、、ッ…!」 「おい、綺羅!落ち着け!大丈夫だから、ゆっくり息しろ」 あの時は、"きれい"って言えたんだ。 今だって、喋れるはずでしょ。 そもそも、先生、いってた、僕の声、ずっと前から聞いてたって。 だから、大丈夫。だいじょうぶなんだから、 声、 出てよ。 「ハッ、ハァッ、………ハッ」 「おい!綺羅!聞こえてるか?おい!」 ………くるしい ーーーーー『……まだ、俺と喋るの、怖いか?』 脳裏によぎるのは、先生の、切なそうな声。 ちがう、ちがうよ。 先生と、喋るのは怖くない。 こわくないのに、 どうして、声が出ないの………! 「ハッ、ハッ、ハァッッ…………ヒュッ、」 「おい、綺羅!……くそっ、ちょっと待ってろ、なんか袋とってくる」 あ。 先生の、目が、遠くなる。 先生の、手が、離れてしまう。 先生が、どこかに、いってしまう。 ーーーーーやだよ。やだ。いかないで。 視界が滲んで、まだ近くにいるはずの、先生のことすら、よく見えない。 ……僕、ないてるのかな? 感覚すべてがが遠くて、よくわからない。 体全体に、感覚がなくて、今自分がどうなっているのか。 それでも。 僕から遠ざかっていこうとした、先生の袖を、きゅっと握った。 クラクラする頭を、それでも必死に振り続ける。 ねぇ、いかないで。 ここにいて。 くるしい。わからない、くるしい。 「ハァッ………ヒュッ、ハッ………」 「おい、綺羅。ちょっとだけ、離してくれ。袋、取ってくるだけだから。そのまんまだと、お前、息、苦しいまんまだぞ…!」 ………焦ったような、先生の声が、聞こえる気がする。 でも、気のせいかもしれない。 わからない。 ただ、1つだけ分かるのは。 「……ハッ、ケホッ、、……ヒュー……ゃ、……ハァッ」 ここに、いてほしい。 それだけ。 ぎゅっと、持てる力全てをつかって、袖をにぎる。 くるしい、あたまがジンジンする。 だけど、先生がいなくなるくらいなら、ずっとこのままでいい。 「ーーーーーーーッ、……チッ、悪い、綺羅。」 次の瞬間。 気づけば、滲む視界でも捉えられるほど近くに、先生の、かお。 火照り切った、僕のくちびるに、冷たい、何かが当たる。 ……なんだろう、これ。 そして、酸素が流れ込んでくるかんかく。 遠かった、意識が、ほんのすこし戻ってくる。 すると一瞬、その冷たいものが、離れていって。 「俺にあわせて、息、しろ」 今度は、先生が、何か喋るたびに、吐息が唇をかすめていく。 そしてまた、冷たい感触。 とたんに流れ込んでくる先生の呼吸に、合わせるように息をする。 ーーーーーなんども、なんども、繰り返す。 遠かった感覚が戻ってきて、僕が事態を把握するころには、僕の温度と、先生の温度は、完全に混ざりあっていた。 戻ってきた感覚から、先生の手が、優しく背中を撫でていてくれたことに気付く。 その手の感触に、強張っていた体が、ほどけていく。 そうして、ごく近くで絡み合う視線。 僕の様子から、落ち着いたことを悟ったのか、先生の瞳が、安心したように揺らいだ。 ……その、どれもが、優しくて。 ーーーー胸が、あたたかくて、だけど、くるしい。 ………僕は、こんなに優しい先生の、名前を呼ぶことすら出来ない。 悔しいよ。 先生の、唇が、ゆっくり僕のそれから離れていく。 僕の心を読んだみたいに、頭を優しく撫でてくれる。 「……悪かった。軽はずみなこと言ったな」 全力で、ブンブンと首を振る。 ちがうよ、先生は、悪くない。 それに、僕は確かに先生と話したいって、そう思ってる。 「焦らなくても、話したくなった時に、話せばいい。」 そう言って、先生は優しく僕を抱きしめた。 熱がある僕の方が、体温が高いはずなのに、先生の腕の中は、やっぱり温かい。 とてつもない安心感に、僕から胸にすりよった。 するとそのまま、ぎゅっ、と少し強い力で頭を抱きしめられる。 「もしその時に、綺羅が、息苦しくなったら、俺の酸素をやる。休みたくなったら、いくらでも、休ませてやる。 …俺はただ、いつか、お前の楽しそうな話し声が聞けたら、それでいい。」 そして、一瞬、躊躇うような気配。 「………けど、お前が歌うときみたいに、話せるようになったときはさ、 その声を向けられているのが、俺だったらいいなって、正直、そう思ってるよ」 ーーーー感情のよめない声でそう言う先生の表情は、腕の中に閉じ込められているせいで、たしかめることができなかった。

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