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第32話

パタン。 「………!」 お風呂のドアを閉める音で、先生が上がってきたことがわかる。 あわててノートを元の場所において、布団にもぐりこんだ。 「………………」 ドキドキと脈打つ心臓を、おさえつける。 『すき』と、そう書いてしまった。 ノート、気付かれちゃったら、どうしよう。 見てほしいから書いたはずなのに、今更わきあがる後悔。 ……でも、見られたとして、ぐちゃぐちゃで何書いてるか、わからないかな? それに、『すき』が、恋愛の意味だなんて、きっと思わない、よね。 …………そもそも、ノートのことなんて気にもしないか。 気付いてほしい、とも思うし、気付かないで、とも思う。 結局、きっと、先生があのノートを見ても怖いし、見なくてもこわいということなんだろう。 とにかくこわくて、不安で、あたまがぐちゃぐちゃで。 早く寝てしまいたいのに、とても寝れそうにない。 布団をかぶって目を閉じて、ひたすらに時間が過ぎるのを待つ。 すると、パタパタと近づいてくる足音。 「……………………綺羅?」 ごくちいさく、囁きのような声音で呟かれた、ぼくの名前。 ようやく聞けたその声に、ぽろりと涙が溢れた。 「…………!……おきてる、か?」 「…………」 どう、しよう。 ぼくが起きてるって知ったら、さっきみたいになっちゃう? それとも、本当に疲れていただけなのかな? どうしたらいいのかわからなくて、結局、身を固くすることしかできなくて。 「…………ねてる、か」 そうしたら、当然先生は勘違いするわけで。 そこで、はぁ、とひとつため息。 ……それは、なんのため息? 返事をしたほうがよかったのかな。 けれど。もし。 …………"おきてなくてよかった"っていう意味だったら? ますます怖くなって、涙はとまらない。 次々にこぼれて、それはシーツにぱたぱたと落ちていく。 おきていることがばれてしまうかもしれない。 そう思って焦るけれど。 よく魘されているからか、先生はそれでも不審には思わなかったようで。 「………………」 先生の指が、するりとぼくの涙をすくっていく。 やっと触れた、先生の、おんど。 離したくなくて、離れて欲しくなくて。 …………きゅっ。 「………………!」 かすかに、けれどしっかりとにぎったその腕。 けれど。 「…………ごめんな」 そう言って先生は、柔らかくぼくの腕をほどいて。 ふわり、優しくぼくのあたまをなでると。 バタン。 「…………」 部屋を、でていった。 先生がいなくなってしまった部屋で、呆然と虚空をみつめる。 てを、ほどかれた。 押し返しても、離れなかった、手が。 いつだって、自然と伸ばされて、ぼくをなだめてくれた手が。 はなれて、いってしまった。 ……………ほんとうに、嫌われちゃった? 確かめたくても、先生はもう部屋にいない。 ……いたとしても、怖くてきっと確かめられないのだろうけど。 ショックで震える体を、どうにか起こして、荷物を取っていく。 …………どう、しよう。 どうしよう。 パニックで、"どうしよう"であたまがいっぱい。 唯一わかるのは、きっと、"ここにいてはいけない"ということ。 衝動にまかせて、少ない荷物をまとめて、僕も部屋から飛び出した。 ……そうしないと、絶対にまた、すがってしまう。 刺すような冷気に、自分がパジャマ姿だったことに気付く。 …………さむい。 カチカチと、歯が小刻みに音を立てる。 けれど、それすらどうでもよくて。 ただひとつ思うのは、先生の家が、オートロックでよかったなって、それだけ。 鍵が必要だったら、こんなに簡単には出ていけないもんね。 …………それは同時にぼくがもうここに入れないことを意味しているのだけれど。 カチャン、 軽い音を立てて閉まってしまったドアをぼんやりと見つめる。 その音があまりにもいつも通りで、これは夢なんじゃないかって、そんな都合のいいことを考えてしまって。 ぎゅうっと、ほっぺたをつねる。 「………………いたい」 それはそうだ、これは夢じゃないんだもんね。 ほんの数日、されど数日。 確かに幸せだったこの数日間。 「…………あり、がとう、ござぃました」 やっぱり人がいないと、出る声。 拙いお礼を伝えてから、一歩踏み出していく。 しあわせ、だった、なぁ。 ーーーぼくには勿体なさすぎるほどに。 …………なにも、かえせなかったなぁ。 ごめんね、ごめんなさい、先生。 「……………どこ、いこうかな」 ーーーー恐れていた"おわり"は、あっけなく、そして唐突に訪れた。

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