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第36話

(side.冴木) 「……っ、綺羅…………!」 呼んでみたところで、もうあいつはこの部屋にいない。 そこで、ふと視界に入ったのは、あの交換ノート。 こころなしか、その位置がずれている気がして。 「………………。」 自然と伸びた手が、そのページをめくる。 そうして、目に入ったのは。 「………………!」 『ごめんなさい。 ⚫︎⚫︎⚫︎⚫︎』 震える字で書かれた謝罪の言葉と、ぐちゃぐちゃに滲んだ、読めない4文字。 その滲みが、綺羅がこれを書いた時、泣いたんだと物語っている。 痛々しいその場所を指でなぞっても、当然そこにもう体温はない。 ただ書き手の悲しみを伝えるように、ひやりとした、温もりの残り香があるだけだ。 それがあまりにやるせなくて、奥歯を強く噛み締めた。 ーーーーなんでだよ。 なんでお前が謝るんだよ。 お前が、何の悪いことをしたっていうんだ。 俺が、自分の感情を持て余して、年甲斐もなく動揺していただけ。 それが、どうして。 ーーーーそこで、何故な脳裏によみがえったのは。 『どうして、先生はこわれないの』 そんな、綺羅のことば。 あの言葉の意味を、深く聞いたことはない。 けれど、まるで自分が何かを壊しているとでもいいたげなその言葉は、妙に記憶にこびりついていた。 きっと、声を出そうとしただけで、過呼吸になるような。 前髪で目を隠そうとするような。 ……からだに、痣をつくるような。 そんな重い、なにかが、綺羅にそう言わせた、それくらいはわかっている。 そう、そんな歪んだ、あいつにとってのこれまでの"日常"が。 「………………!」 まさか。 …………まさか、俺も、"こわれた"と思われたのか? そしてそれが、"いつも通り"綺羅のせいだと、あいつはそう思ったのだろうか。 肝が冷えた、そんな言葉じゃたりないような。 心臓を鷲掴みにされたような。 背筋に冷水を浴びせられたような、そんな気持ち。 違っていてほしい。 だって、もしそうなら、俺はどれだけ残酷なことを綺羅にしてしまったことになるだろう。 考えすぎだと、そう思いたくて。 けれどどうしてもそうは思えない。 秒ごとに募る不安で、情けないことに、どうするべきかもわからない。 ぐちゃぐちゃになってしまった4文字に、何かヒントがあるのでは。 ……筆圧で、読み取れないだろうか。 そう思って、藁にもすがるような気持ちで、ノートのページをめくってみる。 ボコボコに歪んだページから、跡を読み取るのは容易ではなく、慎重に、ゆっくりと読み解いていく。 そうして、わかったのは。 『す き で す』 ーーーーこの、4文字で。 後悔、なんて生易しいものじゃない。 最悪だ。 最悪の想定なんかより、ずっとずっと。 …………これは、いつ、かかれた? 綺羅は、どんな気持ちでこれを書いた? どんな気持ちで、ここを出て行った? ほんとに、おれは 「なにをしてんだよ…………!!!」 できることなら、自分を殴ってやりたい。 けれど今は、そんな時間すら惜しい。 一刻も早く、綺羅を。 さがさないと。 そして、次こそは。 ーーーー絶対に、間違えない。 車のキーを片手に握りしめ、勢いよく家を飛び出した。 ーーーーーー そうして向かったのは、綺羅の"家"。 これは、一か八かの賭けで。 例えば、綺羅に俺が知らないような逃げ場があったら、どうしようもない。 けれど、綺羅が行けるような場所は、ここしか思いつかなくて。 一度だけ送ったことがあるそこに、車をとばして。 階段を駆け上がる。 ーーーーあいつの親が、もし帰ってきていたら。 帰ってきて、いなかったら。 どっちを想像してみたところで、綺羅にとって、プラスになんてなりそうもない。 早足に進めば、ふと廊下に何かが落ちているのが見えた。 …………かばん? 近付けば、それは綺羅が使っていた鞄で。 場所もちょうど、綺羅が住んでいた部屋の前。 まさか、親となにかあった……? バッとふりかえれば、みえる、表札。 けれど、そこに並んでいた文字は。 「………………かん、だ?」 親が、いるとか、いないとかじゃない。 綺羅が俺の家にいた、ほんのわずかな間に、そもそも、ここが、"綺羅"のものですらなくなっていたという事実。 あまりの衝撃に、唖然とする。 …………これを見て、綺羅は一体どう思ったんだ。 そこで、最悪の事態を想像して、慌てて柵の向こう側を確認するが、人が落ちている様子はない。 ひとまず息をつく。 ………こうなれば、考えられる可能性は。 "神田"の表札のついたドアを睨みつけ、インターホンに手を伸ばす。 緊張にか、焦燥にか。 震える手で、インターフォンのボタンを押した。

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