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第40話
しん、と静まり返った部屋。
…………気まずい沈黙。
だれも、なにもしゃべらなくて。
だんだんと、自分がやってしまったことが、こわくなってくる。
それに同調するように、切った腕がじんじんと痛んだ。
視線が、気持ちが。
ぽたり、真っ赤な雫といっしょに、床に、落ちて行く。
ーーーこの行動に、意味は、あったのかな。
もし、意味がなかったら。
……これは、先生を、傷つけた、だけ?
でも。
だけど。
あたまがぐるぐるしてきて、力がぬけていきそうになる。
手からこぼれ落ちそうになる包丁を、ぎゅっと握り直した。
……どんなに不安でも、ゆれちゃ、いけない。
ゆれたら、きっと、後悔する。
できることをやることしか、ぼくにはできないから。不安になるのは、あとで。
そう、自分に言い聞かせていると。
「もう、いい」
空間をふるわせたのは、先生の、こえ。
そして、それが聞こえるのとほぼ同時に、腕をひかれ、ふわりと抱きしめられた。
「ッ…………?!」
カラン、床に包丁が落ちる音が、響く。
……いつのまに、こんなに近くに来ていたんだろう。
先生は、落ちた包丁を遠くへやると、血が出ている腕の付け根を、ぎゅっとおさえた。
「……ごめんな、こんなことさせて。俺が、神田さんの言葉に怯んだりしたからだよな」
そう告げる声は、辛そうではあるけれど、どこか、凛としている。
……いつもの、先生だ。
そう思うと、なんだかとてつもなく安心して。
途端に、ぐらり、と視界がまわった。
「血、流しすぎだ馬鹿。無茶するな」
そのままぎゅっと頭を先生の肩に押し付けられて。
強くなる、先生の香りと、とてつもない安心感。
…………前にも、こんなことあったなぁ。
そう思うと、じわりと視界がにじむ。
「…………でも、そこまでしてくれて、ありがとな。
もう、大丈夫だ。あんな言葉に、動揺してごめん。俺が、自殺なんて、もう絶対にさせなければいいだけの話だよな。
神田さんが綺羅の何だって、関係ない。
…………帰ろう、綺羅」
そのことばに、何度も何度も頷く。
「そういうわけなので、失礼します。"うちの"綺羅が、お世話になりました」
「…………"うちの"、ねぇ…」
「はい。綺羅の自殺を止めてくださったことは、本当にあ感謝します。ですが、もうそのようなことは、二度と起こしませんし、おこりませんので。
なので、綺羅をあなたに預けることも、ありません」
淀みなくそう告げる先生の声には、迷いは見られない。
「…………はぁ。……その様子じゃ、どうしようもありませんね」
そう言いながら、近付いてくる気配に、無意識に肩が震えた。
まだ何かあるのかな。
きゅっ。
「………………?」
うでに感じた圧迫感にそちらを見ると。
「…………うで、握ってるだけじゃ心許ないでしょう。それ、差し上げるので止血に使ってください。縫うほどではないでしょうが、結構切れてるので」
先生が握っていたところのすぐ近くが、布で縛られていた。
「……ありがとうございます」
「別にこのくらい、構いませんよ。」
「……では、お言葉に甘えて。それでは失礼します」
そう言って僕を抱えたまま出口に向かう先生を、神田さんは特に止めるでもなく、眺めている。
…………あきらめてくれた、のかな?
一瞬、そう考える。
けれど、神田さんはぼくと目が合うと。
『またね』
口の動きだけでそういって、ゆったりと笑った。
「…………!」
びくりと震えたぼくに何かを感じたのか、先生はもう一度ぼくの頭を、肩に押し付ける。
「……俺が言えたことじゃねぇけど。
お前、今日は本当に無茶しすぎ。体も冷えすぎ。話したいことたくさんあるけど、今日はもうとりあえず寝ろ」
……明日起きてから、ゆっくり話し合うぞ
そういって、とん、とん、と同じリズムで背中をたたかれる。
約束された"明日"が嬉しくて。
へにゃり、と情けなく顔が緩んでしまうのを感じた。
……だれもみてないし、いいよね…?
それと同時に。
疲労と、安心感と、ひとの、体温。
そのどれもが、急に眠気をさそってきて。
「…………おやすみ」
先生のその言葉を最後に、意識はまどろみのなかにおちていった。
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