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第45話

たぶん、はじめは、すごく"ふつう"に近いかたちだった。 『きょう、かいたの』 『…………そうか、たのしかったか?』 『うん』 『…………よかったな』 みじかい言葉、ぎこちない返答、交わらない視線、くもった表情。 全部どこか不自然で、 "ふつう"をなぞってるみたいな、まねするみたいな、さぐりさぐりの会話。 けれどそれでも、最初は、たしかにちかくにあったもの。 それはきっと、"かぞく"のかたちに似ていた。 ぼくがしゃべると、オトコノヒトは、つらそうな顔をしている、きがした。 こどもだったから、はっきりとわかっていたわけではないけれど。 "しゃべらないほうがいい"だろうということは、なんとなくわかっていて。 だから、あまりしゃべらないようにしていた。 あくまで、"あまり"だったのだけれど。 オトコノヒトは、いつも、ぼくになにもいわなかった。 何か言えば、『そうか』と、受け止める。 ただそれだけで、なにかをしろとも、なにかをするなとも、あまり言わなかった。 けれど。 オトコノヒトはたったひとつ、 『前髪だけは切らないでくれ』 そういった。 だから、昔から、ぼくの前髪は、つねにのびっぱなしだった。 けれどべつに、それに不満はなかったし、特に困っていたわけでもなかった。 だけど。 それは、まわりにとっては"ふつう"じゃなかったから。 『綺羅くん、ちょっとこっちおいで』 『?どうして?』 『前髪、少し長すぎると思うの。それじゃあ、目が悪くなっちゃうよ』 そういったのは、明るくて、優しくて、すごく好かれていた先生。 その先生は、ぼくの前髪を、きってしまった。 『やだ!!!きらないで!!!!』 『大丈夫よ、先生がちゃんとおうちの人に言っておいてあげるから』 たぶん、それは、純粋な善意で。 ぼくは良くても、まわりがぼくを遠巻きにしているから。 きっと、"正そう"と思ったのだろうけど。 『………………』 ぼくは、あのときのオトコノヒトの目を、きっと、一生忘れない。 それは、恐怖なのか、怒りなのか、憎悪なのか。 複雑すぎて、ぼくにはわからなかったけれど。 はじめて、"ここにいちゃいけない"んだと、そう、感じた。 顔を見てほしくなくて、見られたくなくて。 だけどそれを隠してくれるものはもうなくて。 物心ついてから、はじめて視界が広がったあの日。 視界が広がったぶんだけ、息が、くるしかった。 かみが、かべが、ごまかしてくれていた、現実を見てしまった気がして。 その日ぼくは、ずっと、俯いていた。 ひとことも、しゃべらなかった。ううん、しゃべれなかった。 ーーーーまちがいなく、あれは、"はじめて、息苦しさを知った日"だった。

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