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第54話

2人が帰ってから、しばらくは。 黒崎が質問をしてきたり、それぞれ問題を解いたりしていたのだけれど。 「…………綺羅さ、なんか、悩んでる?」 ふと投げかけられた、黒崎くんの、そんな言葉。 それに、ピタリと手が止まった。 そのまま視線をあげると、黒崎くんのまっすぐな瞳と、目があって。 「……なんか、勉強会始まったくらいから、たまに心ここに在らずって感じだからさ。言いたくなかったら、良いんだけど、もし良かったら、話、聞くよ?」 黒崎くんは、やわらかい声でそういってから、優しく目を細めた。 すごい、なぁ。 心の底から、そう思った。 だって、2人きりで喋る事もあまりなかったから。 まさか気付かれているとは思わなかった。 ……勉強会の、初日から。 ずっと、頭の片隅にのこっている、もの。 勉強に集中することで、心を落ち着けようとして。 けれど、やっぱりふとした瞬間、もやもやしてしまう。 先生と、一緒にいても。 先生が、"先生"であることそのものが、どうしても、"将来"を彷彿とさせて。 先生にも、"学生"の時代があったのだと、そんな当たり前のことを考えさせられた。 ぐるぐるとまわる不安のなかで、その優しい目を見てしまえば、その言葉は、自然に溢れた。 『将来のこと、黒崎くんは、もうきまってるんだよね?』 "俺には心に決めた道があるから" 会話の中で、たしかにそう言っていた。 「あーー……。なるほどね……。それで、悩んでたの?」 コクリとひとつ頷けば、黒崎くんは、苦笑した。 「綺羅は、ほんとに真面目だなぁ。まぁ、そんなところも…………いいところだと、思うけど」 一度、不自然に空いた隙間は、たぶん、言葉を選んでくれていたんだろう。 生まれかけた気まずさを無理矢理壊すみたいに、黒崎くんはことさらに明るく笑った。 「将来さ、俺、サッカー選手になりたいんだよね。」 "さっかーせんしゅ。" 口の中で呟けば、黒崎くんはひとつ頷く。 「難しいことなんてわかってる。 けど、昔から、どうしてもサッカーが好きでさ。このまま、できるだけ長い間関わりたいなって思うから。……でも、逆にいえば、それだけ。だから、綺羅みたいに深刻に考えて出した結論じゃないよ」 ただ好きだから、それを続けていく。 …………そっか、そんな考え方もあったんだ。 「"将来"なんていったらさ、漠然としてて、難しいけどさ。そこにとらわれなくても、"今"の結果としての"将来"って、俺は考えてるんだよね」 いまの、けっか。 そっか、今と"将来"は、切り離してかんがえなくても、いいんだね。 『そんなふうに、考えたことなかった。ありがとう』 なんだか少し、楽になった気がした。 「どういたしまして。参考になったなら、よかった。 数学のお礼だから、気にしないで」 そういって、僕に伸びてきた手は。 けれど、髪に触れる寸前で、ピタリと止まって。 「…………"お弁当の人"には、相談した?」 そう問いかける目は、静かで。 だけど、おだやか、だった。 ふるふると首を振る。 「相談してみたら、いいんじゃない? たぶん、俺と話すよりずっと、参考になるんじゃないかな」 ーーー"それに、多分それが、"正しい"よ。" その言葉は、僕たち以外いない教室に、妙にひびいた、きがした。 ただ、アドバイスをしてくれただけなのに。 なんだか、少しだけ、壁を感じるような、そんな声色。 そう言い終わると、少しだけ切なそうに笑って、黒崎くんは、上げたままになっていた手を下ろした。 「……そろそろ、帰ろうか」 その言葉に、ふと時計をみれば、丁度いつも帰る時間帯。 帰り道、やっぱりぼくと黒崎くんの間には、少しだけ、距離があって。 でもそれは、もしかしたら、黒崎くんの言う"正しい"ことで。 黒崎くんの、優しさだったのかもしれないと、ぼんやりそう思った。

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