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第56話

先生は流れるように、交換ノートとペンをとって、ぼくにさしだした。 「で?なにをそんな悩んでんだ?」 そうたずねる顔も声も、ぼくを安心させるみたいに、どこまでも甘い。 気付けば、引き寄せられるように、そのノートを受け取っていた。 けれどそこで、開くのを、ためらってしまう。 ……いいのかな。 ここで、先生に相談したら、きっと、大丈夫だよっていってくれて。 そうして、ぼくは安心するのだろうけど。 …………それは、ただしいのかな。 自分で、かんがえることから、逃げているだけじゃ、ないのかな。 それに、ぼくはいつもこうやって、先生に頼ってばかりで。 それって、 ぐるぐる回りだした思考に。 ぺちん。 軽い音が響いた。 ハッと我に帰ると、先生に両頬を挟まれていて。 「難しく考えこむな。"恋人"に悩みも相談してくれねぇの?」 そのまま、先生は身をかがめて、真正面からぼくの瞳を覗き込んでくる。 「もちろん、言いたくないんだったら無理にはきかけねぇけどさ」 その、綺麗なあおいろに、ぼくが写り込んでいるのが見えて。 「"いっぱいいっぱいだ"って、顔にかいてあんぞ」 "表情がわかりやすい"って、ほんとだったんだなぁ。と、そう思った。 『すごく、今更なことだと思うんですけど。 今まで将来のことを、考えたことがなくて。 黒崎くんたちが、将来の話をしているのを聞いて、不安になって。 将来、おとなになっている、自分が想像できなくて。 今まで、他の人たちは、先のことを考えて、いろんなことをしていたのかなぁと、思ったら、ぼくが今していること全部、勉強だっていったら、意味がなかったのかもしれないとか、ぐるぐる考えていたら、もう、ぐちゃぐちゃで』 こうやって書き出したら、なおさらぼくの思考がぐちゃぐちゃなんだって、わかってしまう。 でも、ぼくがそうやって、たどたどしく、思いを書く間も。 先生は口を挟むでもなく、急かすでもなく。 ただそっと、側で静かに見守ってくれた。 『どうしたらいいのか、わからないんです』 どうにか最後まで書き終わると。 先生はぼくの手からペンを奪って、そっとぼくを抱きしめてくれた。 「"今更"じゃないし、すぐに決められないのも当然だ。 だから、焦る必要なんてねぇんだ」 一言、一言、かみしめるように、ゆったりと、先生は続けた。 ……ほんとうに、そうなのかな。 先生に会うまで、"死のう"と、思ったことはなかった。 けれど、明日に、先に、期待をしたことだって、"生きたい"と、心の底から思ったことだって、ありはしなかった。 ぼくの変わらない毎日は、"今"をやりすごしている、ただそれだけだった。 そうしていれば、永遠に、変わらない"今"のなかで、生きていけるような、そんな気がしていた。 けれど、そんなことは、あるはずはなくて。 いつか、ぼくだって、先生のような、おとなになる、わけで。 それじゃあ、そのとき、ぼくになにができるのかな。 いま、ぼくには、自分がすごく空っぽでちっぽけなようにしか、思えない。 何か、しないと。 でも、何をしたらいいのかな。 折角、励ましてくれているのに、不安な気持ちは晴れなくて。 だけどそこに、先生の優しい声が降り注いだ。 「……綺羅はさ、すごい、変わったよな。まわりの環境も変わって、今、いろんな新しいことを体験してる。 きっと、これからも、どんどん変わっていくんだろうな」 先生の瞳にうつるぼくは、まるで、迷子見たいな表情で、すごく、情けない。 こんなに情けない顔をしているのに、ぼくは本当に"かわれた"のかな。 …………"かわれる"のかな。 「こうやって、綺羅が、不安を抱けることも。どうにかしないとって、焦ることも。全部成長したからだと、俺は思うよ。 だからさ、綺羅はこれから、変わっていくなかで、たくさんみる新しいものに出会っていくなかで、やりたいことを見つけていけば良いんだよ 不安に思えるお前だからこそ、きっとできる」 けれど、そんな不安な気持ちは、先生の言葉で丸ごとすくいあげられて。 ふわふわとぼくの頭を撫でる、ぼくを甘やかすうでまでが、"大丈夫だよ"って言ってくれているみたいで。 いつもこんなのじゃダメだって思うのに。 「綺羅の将来は、綺羅が見つけなきゃダメだけど、探すのを手伝うことくらいはできる。 だから、そんな不安そうな顔すんな。 お前はもう、ひとりじゃないだろ」 やっぱりぼくは、その優しいうでに、声に。 結局、安心してしまうんだ。

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