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第57話

(side.冴木) 腕の中で、すやすやと穏やかに眠る綺羅をぼんやり見つめた。 「…………。」 その、あどけない寝顔が可愛くて。 ゆっくりとその柔らかい髪に指を通せば、甘えるようにすり寄ってくる。 それだけで、幸せで。 胸の奥から、愛おしい気持ちが湧き上がってくる。 綺羅が一度家を飛び出したあの日から。 こうやって、腕の中に眠りにつく綺羅を抱きしめていないと、ひどく不安になる。 逆に今は、触れ合う指から伝わる、綺羅の存在に、とてつもなく安心していた。 この気持ちに、名前をつけることを戸惑っていたことが、信じられないほど明らかに。 俺は綺羅に、恋をしていた。 つい、さっき。 最近ずっと、どこか不安そうだった瞳が、少し晴れたことに安心していると。 『いつも、ぼくばかり沢山もらっていて、ごめんなさい』 綺羅は、ノートにそんなことを書いた。 綺羅は、全然、わかっていないと思う。 俺が、どれだけ綺羅のことが好きで、どれだけその存在に、救われているのか。 どれだけ沢山の気持ちを、幸せを、お前からもらっているのか。 どういえば、伝わるだろうかと思考を巡らせたとき。 『だから、ぼくも、いつものお返しに、なにか"ごほうび"あげます』 そんな文字が、視界に飛び込んできた。 『ぼくにできることなんて、限られているけれど、でも、ぼくにできることなら、何でもします』 そう書いて、俺の目を覗き込んでくる綺羅の瞳は、真剣そのもので。 そんな瞳から、ひたむきさとか、必死さが伝わってきて。 胸があつくなる。 好きで好きで、しょうがない。 綺羅の全てが、"すき"なんて言葉では表せないほどに、愛おしかった。 衝動的に、綺羅の手から、ノートとペンを受け取って。 『じゃあ、"先生"って呼ぶのと、敬語、やめてくれ。名前で呼んでほしい』 気がつけば、そうかきおとしていた。 それに、余裕がないな、なんて我ながら苦笑してしまう。 俺の名前を、綺羅は知っているだろうか。 ……多分、知らないだろうな。 "冴木 充"ーーーさえき みつる。 それが、俺の名前だ。 『"満たされて、満たすことができるような、そんな素敵なひとと、出逢えますように。出逢って、つねに満たされた、幸せな人になりますように。"って、つけたのよ』 昔、学校の課題か何かで名前の由来を尋ねた俺に、母親は穏やかにそう告げた。 そして、その記憶は、妙に心に残っていて。 俺はあまり人に名前を呼ばせなかった。 名前は特別なものだと、そう感じていたから。 けれど、俺はいま、心の底から、この名前を"綺羅に"呼んでほしいと思うし。 この名前をささげる相手は、綺羅であってほしい。 綺羅は、"そんなことでいいのか"とでもいいたげに、僅かに首を傾けて、ぱちぱちと目を瞬かせていた。 それをいいことに、俺はもう1つ、願いを書いた。 『あと、声、出せるようになったら、一番に俺の名前を、呼んでほしい』 ーーーそれは、未来の約束。 ずっとそばにいたい。 そばにいて、綺羅を幸せにしたい。 "俺が"綺羅を、守りたい。 心の底から、そう願っている。嘘じゃない。 だけど、本当に綺羅を幸せにできるのは、俺じゃないかもしれないから。 願うだけじゃ、保証にはならない。 いつか、綺羅が離れていってしまいそうで、こわいんだ。 綺羅の新しい不安は、確かな可能性の広がりを表していて。 前まで、まるで自分とは関係ないみたいに、周りをみていた綺羅は、その周りの中に、自分を溶け込ませることが、できるようになった。 その変化を、嬉しく思うし、同時に寂しくも思う、 きっとこうして、綺羅の世界は、どんどん広がっていくんだろう。 そうして、新しいものを見つけて。 新しい人たちにめぐりあって。 そうして広がり続ける世界のなかで、いつまで自分は、綺羅の"特別"で居続けられるんだろうか。 そんなことを、つい、考えてしまう。 こんなにも、ちっぽけで、臆病なんだ、俺は。 綺羅は、そんなこと、夢にも思っていないだろうけど。 だから、姑息にも、先のことを約束した。 小さな、いつかはわからない未来の約束。 それは、案外すぐかもしれないし。 ずっとずっと、先のことかもしれない。 だけど、いつになったとしても、綺羅は約束を守ってくれるだろうって。 そして、それを少しでも、確実にしたくて、口で言えばいいのに、ノートに書き出した。 自由に、幸せになってほしいなんていいながら、意識の端で、縛ろうとする。 綺羅は、このずるさになんて、気付かないんだろうな。 俺のうしろめたさとは裏腹に、綺羅は、とてもとても、綺麗に笑って、頷いた。 嬉しそうな、幸せそうな、笑顔で。 するりと、眠っている綺羅の喉に手を滑らせる。 なめらかで、白くて、傷ひとつない綺麗な喉は、けれど人前で音を発することができない。 あんなにも透明で、人に届けるために存在するような、うつくしい歌声が、ひとに届けられることも、今は、ない。 いつか、その声が、俺の名前を呼ぶのを、聞くことはできるのだろうか。 もし本当に、そんな日がきて。 さっきの約束が果たされたとしたら、柄にもなく、泣いてしまうかもしれない。 そんなことを考えながら、そっと目を閉じた。

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