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第58話

今まで、そんな風に思ったこと、なかったけれど。 1日1日は、ちがっていて。 そのそれぞれが、かけがえのない、代わりの存在しないものだと、そう、一度理解してしまえば、瞬く間に、日々は過ぎていってしまう。 勉強会は、あっという間に終わってしまった。 あれから、黒崎くんとふたりきりになることもなかったし、2人だけで話すこともなかった。 ただ一度。 ぼくが、充さんと話した次の日。 『言った通りだっただろ?』 内緒話をするみたいに、小さい声でそう言って。 全てお見通しだと言いたげに、黒崎くんは小さく笑った。 それ、だけ。 「終わり。ペンを置くように」 その声で、テストを伏せ、ペンを置く。 テストが回収されると、教室を覆っていた緊張感が、一気にほどけていった。 …………おわった。 ほぅっ、と肩に入っていた力が抜ける。 今までで、きっと1番勉強して、けれど、今までで1番、緊張した、テスト。 ……"ごほうび"、もらえるかな。 すこし、自信はあって。 けれどまだ、確定じゃない。 結果がわかるまで、まだあと少し。 そわそわする胸をかかえて、家に帰った。 陽が差し込む、まだ明るい室内には、まだ誰もいない。 …………考えてみたら、この家にひとりでかえってるのは、はじめて、かもしれない。 最初は、家まで送ってもらっていたし。 最近は、遅くまで勉強会をしていたから、家に帰れば、もうすでに、充さんがいた。 いつだって、"帰ってきていいんだよ"っていってくれるみたいに。 "おかえり"と、そう言って、当たり前にぼくを迎えてくれた。 「…………」 しんと静まりかえる空間は、ここにくるまで、ぼくの日常だったのに。 充さんと、会ってから、それはもうすっかり"非日常"に、変わってしまっていて。 誰もいない静かな空間だって、"うたを歌える自由な場所"から、"すきなひとがいない、寂しい場所"に、カタチを変えた。 するりと、窓を覆うカーテンを開ける。 その隙間から覗く空は、晴れ渡っていて、すごく綺麗だけれど。 『綺羅』 あの、あおのほうが、ずっとずっと、何倍もきらめいていて、まぶしい。 ぼくのせかいの中心にあったものは、どんどんその地位を追われて。 充さんが、その中心を、奪っていく。 最初は、充さんの目を見て、"空みたいだ"と思ったのに。 今では、空を見て、充さんを思い出す。 新しく知る、どんなものも、刺激的で新鮮で。 けれど、そのどれも、決して充さんには、叶わない。 充さんが言ってくれたみたいに、これから、どんどんぼくの世界がひろがっていくのだとしたら。 広がったぶんだけ、ぼくは、"どれだけ充さんが好きか"をかみしめることになるんだろう。 充さんは、ぼくがこんなに充さんのことが好きだなんて、きっと知らないんだろうな。 けれど。 名前で呼ぶと約束した、次の日。 つい、癖で、『先生』とかきそうになったとき。 充さんは、 『充ってよべ』 そう言って、その名前の由来を教えてくれて。 その名前を呼ぶのは、ぼくがいいって、そう言ってくれた。 すごく嬉しくて、ドキドキして、うまく反応できないぼくを抱きしめて。 優しいだけでも、甘いだけでもない、少し切羽詰まった表情で。 『俺は、お前がおもってるより、ずっとずっと、綺羅のことが好きだよ』 そう、言ってくれたから。 ぼくと、充さんは、全く同じことを考えているのかもしれない。 そう思うと、胸の中の不安すら、吹き飛んでしまう気がした。 ただ、少しだけ。 心のおくに、ひっかかる、もの。 充さんの名前の由来には、たくさんの"愛"が、詰まっていた。 きっと、充さんのことを考えて、大切に、大切に考えた名前なんだろうな。 幸せに、なってほしくて。 充さんのことが、とってもとっても、大切だから。 充さんもまた、その名前を大事にしているのが、すごくよくわかった。 ーーーーけど、じゃあ、ぼくは? それは、ふと湧いた、疑問で。 愛。めぐむ。 ひとから、この名前を呼ばれたことなんて、数える程しかなくて。 この名前が、誰につけてもらったのかも、なんでこの名前なのかも、まったく、わからない。 ……意味なんて、ないのかもしれない、けれど。 だから、ぼくにとって、この名前は、ほかの"綺羅"さんとぼくを、区別するためのものでしかない。 それがすこしだけ悲しいなって、はじめてそう思った。

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