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第61話

慌ててパシパシと胸元を叩けば、充さんも気付いたのか、数学準備室の鍵を開けて、ぼくを中に引き込んだ。 そのまま、カチャリと鍵を閉める音が響く。 ほっと息をつく間もなく、もう一度充さんに抱きしめられた。 耳元で、充さんの少し荒い呼吸がきこえる。 ……はしってきてくれたのかな。 「数学は知ってたけど、ほかの教科もすげぇ頑張ったんだな」 そのことばで、充さんがもうこの結果をしっていることがわかった。 ちらりと表情を伺えば、充さんは、心の底から、嬉しそうに、笑っている。 「職員室で、話題になってたぞ。全教科満点だって」 やっぱお前、すげぇなぁ。 そういう顔は、なんだか誇らしげで。 褒めるように、ふわりと頭を撫でられる。 いつだって、欲しいと思った時に差し出されて、ぼくを安心させてくれる、その手のひら。 いつだってぼくを慰めてくれて。 甘やかしてくれた。 けれど、こんな風に、褒めるために撫でられるのは、たぶん、はじめて。 だから、もちろん、嬉しい。 ぼく、頑張れたんだって、そう思える。 だけどね。 「すごい、本当にすごいよ、めぐむ」 ぼくがこれをできたのは、絶対に、充さんのおかげなんだよ。 だって、はじめて何かを、"どうしてもやりたい"って思った。 はじめて、目標をもって。 はじめて、それに向かって頑張れた。 はじめて、テストで緊張した。 ほかにも、たくさん、はじめてのことがあって。 このたくさんの、"はじめて"は、充さんがいなかったら、きっと一生、手にできなかった、はじめてだから。 ……充さんは、本当に。 どれだけ沢山の、はじめてを、幸せを、感情をくれるんだろう。 ずっと、感極まったように、すごいって、そう言ってくれる充さんの口元を、手のひらでそっとおさえた。 『ありがとう。ぜんぶ、充さんの、おかげ』 これを、自分の声で伝えられたら、どんなにいいだろう。 けど、まだ、できなくて。 …………くやしい、なぁ。 伝えたいことすら、ぼくの声で届けることは難しい。 "全然変われない"と、そう、思っていた。 充さんが、"変わった"し、"変わっていける"と、そう言ってくれた時も、本当にそうなのかなって、不安だった。 だけど。 ぼくは、たしかに、変われている、のかもしれない。 "一歩踏み出したい"と、そう思ったあの時から、少しは、踏み出せているのかもしれない。 それは、きっと、小さな小さな一歩で。 けれど、確かな、一歩。 パチパチと目を瞬かせている充さんに、どのくらいぼくの気持ちが伝わっているのかは、わからないけれど。 充さんは、ぼくの手をそっと口元から外して、ゆるりとわらった。 「こちらこそ。頑張ってくれて、ありがとう」 めぐむ。 ぼくの名前を紡ぐ、その音は、耳じゃなくて、唇で感じた。 ハッと我にかえったときには、すでに充さんとぼくの間には、隙間があって。 それでも、ごく近い距離。 「あと、どうせ塞がれるなら、こっちがいい」 吐息に乗せて、充さんがそうささやくと、もう一度だけ、柔らかく唇が触れ合った。

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