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六 胸の高鳴り

 それから一週間の後、盆が明けて、町中が再びいつもの喧騒を取り戻し始めた頃、店じまいをした直後に暖簾をくぐるものがあった。  今まさに雨戸を締め切ろうとしていたところであった私は、丁寧にお引取り願おうとして、手を止める。 「ああ、渥美(あつみ)さまでございましたか」 「おう、繁盛しているか」  顔をのぞかせたのは、ここいら一帯を取り仕切っている同心(どうしん)の渥美与三郎であった。彼がここを訪ねてくるのは初めてではないが、何も私が罪を犯しているからというわけではない。  与三郎は私の両親を斬った不逞浪士をお縄にした同心だった。  まだ幼かった私を助けてくれた大人の一人であり、今もこうして折を見ては顔を見に来てくれるという、世話好きな男なのである。 「お久しゅうございますね、お元気ですか」  私は彼に座布団を薦め、上がり框に正座をした。彼はどっかりと私の横に腰を下ろすと、ふうと息をつく。そろそろ年には勝てないと言っていたこともあり、一日の終りには疲れが出るのであろう。 「ああ、まぁな。しっかしまぁ、毎日毎日暑くていけねぇ」 「そうでございますね。渥美さまは外回りが多くていらっしゃるし」 「そうなんだよ。貴雪さんは相変わらずいつも涼しげだな」 「日がな一日この店の中におりますからね、気楽なものです」 「いやいや、気楽にしていたら、こんなにもこの店は力を盛り返さなかったろうさ」 「皆様のお力添えがあってこそです。また新しい羽織を誂えましょうか? いい麻地が入りましてね」 「ははっ、そんなに擦り切れてるかね、俺は」 「綻びが出ていますねぇ、このあたりも布が薄くなってきておりますし。裏打ちして直しましょうか」 「そうだな、それでいこう」 「かしこまりました。明日の昼にはできますから」  私は与三郎から黒い羽織を受け取ると、丁寧に畳んで傍らに置く。 「今も吉原通いは続いてんだな」 「ええ、お得意様ですから」 「羨ましいねぇ、俺はついぞ縁のない場所だぜ」 「まぁ私も、遊びに行くわけではございませんからね。それに昼間の吉原など、興が覚めるだけですよ」 「まぁ、違ぇねぇな。昨日な、旧吉原のほうで遊女の殺し合いがあったんだ」 「え」 「男の取り合いだ。客じゃねぇ、若い間男を取り合ってな。おめぇさんは新吉原が専門だから、まぁとばっちりは受けてねぇか」 「はい、まったく……」 「女は怖いね。特に、ああして鳥かごに囚われてる美しい鳥達には自由がねぇ。余計に男に拘るんだろうな」 「……そうですね」 「貴雪さんも気をつけなよ。とっとと嫁でも娶って、俺を安心させてくれ」 「はい、なるべくそうします」 「ははっ、気のない返事だねぇ」 「いえ、ここのところ周りの者にも口を酸っぱくして言われていますので、考えてはいます」 「そうかい。まぁ、気長に待ってるさ。じゃあな」 「はい。ご苦労様でございます」  私は深々と頭を下げて、与三郎を見送った。  盆明け直後ということと、かねてから世話になっていた与三郎と久方ぶりに話をしたこともあり、私はふと両親を思った。  二日前に紋吉一家と墓参りに行って、あれからかなりの年月が経っていることに改めて気づいたものだ。墓前に来るたび、早く嫁や孫の顔をみせてやらないといかんかなと思ったりもするが、日常に戻ってくるとそういう気持ちもまた忙しさの中に埋もれていく。  私は神棚を見上げて立ち上がり、ぱんぱんと柏手を打つ。そこは仏壇ではないのだが、どうもそこに私の両親は居着いているような気がしている。 「……そのうち、そのうちだ」  私はそう呟いて、しばらく目を閉じ手を合わせていた。  そして、さて雨戸を閉めようかと振り返った私は、仰天してその場に腰を抜かしそうになる。 「商売の神様? そのうちってなにが?」  さっきまで与三郎が腰掛けていた場所に、清之介が座っていた。一体いつ入ってきたのか、まるで座敷わらしのようだ。  いつぞやのような艶やかな着物ではなく、そして供も連れず、ごく大人しい草色の着物姿だ。そうしていると、ただの町人に見えなくもない。 「せ。清之介……どの」 「いやだなぁ、呼び捨てでいいって。もう店じまいだろ」 「あ、ああ。今まで客が……」 「同心だよな。十手が見えた」 「見てたのかい?」 「ちょうど出て行くところがね。大方、旧吉原でのことでなんか聞かれたんだろ」 「鋭いな。それもあるけど、あの人は私の両親を斬った浪人を捕まえてくれた人でね、恩人なのさ」 「へぇ、そうなんだ」  清之介は珍しそうに店の中を見回している。私は雨戸を閉めてしまうと、「色々見てもいいよ」と彼に告げた。 「いいの?」  待ってましたとばかりに清之介は草履をぽいぽいと脱ぐと、帳場の後ろにずらりとならんだ反物の棚をしげしげと近づいて見つめたり、その横にある帯留めや組紐といった小物類なども観察している。やはりそういうものには馴染みがあるのだなぁと、私は簡単な掃除をしながら清之介の背中を眺めていた。 「高そうなもんばっかりだな」 「分かるかい? でもね、そういうものばかりではないんだ。もっと手頃なものも揃ってるよ」 「ふうん。……あ、そうだ。旦那との取引の話、母さんが受けたいってさ」 「おお、そうか。ありがたい」 「数日中母さんがこっちに来るって。きっと店も見たいんだろうな」 「分かったよ。ありがとう。……ところで、おたくの楼主さまは女性なのかい」 「ああ、そうなんだ。元は遊女だったみたいだけど、子どもが生まれて仕事できなくなって。でも居場所なんてあそこにしかないから、綺麗な男集めて見世を開いたんだそうだ。軌道に乗るまでは、苦労したってさ」 「だろうね。吉原に陰間茶屋なんて、初めて聞いたものな。……じゃあその息子は?」 「それがね、息子は病気で死んじゃったって。だから男集めてるってのもあるんだろうな」 「そっかぁ……」 「用事はそれだけなんだけど、旦那が俺を一晩買ってくれるって言うなら、また添い寝してやってもいいぜ」  清之介は小首を傾げながら、私を見上げてそんなことを言った。この間だって添い寝を頼んだ覚えもないし、というより寧ろこちらが添い寝を頼まれたのだが……と思い巡らせながらも、私はちょっと笑った。 「そうだな、お使いを頼んでいたわけだし。また泊まっていくかい」 「ありがてぇ」  清之介はほっとしたような顔をして、にっこりと笑った。    +  まだ時間が早かったため、私はしばらく文机で絵を描いていた。清之介は大人しくそれを隣で熱心に見つめながら、色々と商売について質問を投げかけてくる。   この子は学びたがっている、私はそう思った。絵のことにも、着物の売り買いのことにも、ここに勤める奉公人たちはどこから来るのかなど、知らない世界のことに興味津津なのだ。    私は彼の問に一つ一つ答えてやりながら、知識を与えていくことに少しばかり喜びを感じた。清之介の世界はまだまだこれから、無限の広がりをもつことが出来る可能性がある。それを少しでも支えてやれるのであれば何よりだと思った。 「身売りに来たのに、学問しにきたみたいだ」  話が一段落してから、清之介はそう言ってごろりと布団に転がった。 「……いや別に、私は君の身体を買おうなんて一言も言ってない」 「あ、そうか。添い寝だ。本当にそれだけでいいのかい」 「添い寝っていうのも、君が押し売ってきたんだろう」 「あ、そっか。じゃあ何で俺がいるのを許すんだ」 「そうだなぁ……。私は、君と話をしているのは楽しいよ、なんだか気楽だ」 「そうなの? 客と話なんて、滅多にしないけどなぁ」 「え、しないのかい?」 「何して欲しいとか、何したいとか……まぁその程度は」 「ほう……」  初対面の相手とよくそんなことが出来るものだと感心すらしてしまう。私にはとうてい無理な行動だと思った。清之介は改めて自分の行動について考え直してでもいるのか、枕を見下ろして少し黙っていた。 「まぁ、興味ない相手の話なんて聞いててもしょうがねぇしな。旦那は変な人だな」 「そうかな」 「俺、旦那になら何でもしてやるのに」 「……その気持はありがたく受け取っておくよ」 「ははっ」  清之介は笑ってごろりと横になると、足を組んでぶらぶらさせながら言った。 「ていうかむしろ、旦那たちのほうが普通なんだろうけどな。俺の周りにはいないから」 「何が普通か、というのも難しいがね。この歳でまだ独り身、いい女もいないというのも、充分普通じゃないと言われているし」 「ああ、そうかぁ。そういう見方もあるわけか」 「難しいものさ、人の間で生きていくということは」 「そうだね。……なぁ、早くこっちへ来ておくれよ。俺眠くなってきた」 「え? あ、ああ……」  今夜は特に蒸し暑く、蚊帳を吊って戸は開け放してある。明るい月が出ており、行灯を吹き消しても部屋の中はぼんやりと明るい。天井と垣根の隙間から見える夜空を見上げながら、私は清之介の隣に横になった。 「……線香の匂いがするな」 と、私に身を寄せてきた清之介がそう呟く。 「盆はずっと仏壇に火を入れていたからね。その匂いが染みているのだろう」 「死んだ両親の供養だね」 「うん、そうだよ」 「おっかさん、元気にしてるかな……」 「文などのやり取りもないのか?」 「うん……」 「会いたいかい」 「まぁ、ちょっとは。でもこんな仕事してるからさ、会っても合わせる顔がねぇよ」 「……そうか」 「きっと、ふるさとに帰ることだってもうないし」 「……そうか」 「やめよう、こんな話」  清之介は固い口調でそう言うと、ぎゅっと私の腕にしがみついてきた。私よりも少し高い体温が、袖を通じてじんわりと伝わってくる。私はこの間のように、清之介の首の下に腕を通すと、その肩を抱いた。  横を向いて私に抱きついてくる清之介のつるりとした脚が、私の素足に触れる。爪先は冷たく、私で暖を取ろうとしているようにも感じられた。さらりとした肌の感触に、少しばかりどきりとする。 「……しゃぶってやろうか」 「……いや、いい」 「何にもしないの?」 「……駄目かい?」 「駄目じゃないけど……なんか悪いな、こんなに優しくしてもらってんのに」 「いいんだよ、私が勝手にやっている」  ごそごそと清之介が腕の中で動き、顔を上げて私を見上げる。そちらに顔を向けると、きらきらとした大きな目と視線がぶつかり、これまたどういうわけか少しどきりとした。  清之介は、長い睫毛に縁取られた、綺麗な目をしている。 「旦那の名前は?」 「……貴雪、だよ」 「たかゆき……どんな字?」 「貴い、雪……あの冬に降る雪と書く」 「へぇ、きれいな名前だ。冬生まれなのかい」 「ああ、そうだよ」 「貴雪、か」  清之介はじいと私を見つめたまま、微笑んだ。ぐっと、心臓を掴まれるような気がして、私は思わず目を逸らす。  肩口に重みを感じる。清之介が頭をもたせかけたのだ。彼は私の着物の襟から手を差し込んで素肌に触れると、それ以上動かなかった。  やがて寝息が規則正しく聞こえ始めた頃、私はもう一度清之介の顔を見下ろした。つんとした形のいい鼻梁と、伏せられた長い睫毛は、本当に人形のように整った造形である。  認めたくはないが、花巻とこうしていた時よりも、ずっと私の心臓は鼓動が早い。  私はため息をつくと、もう一度空を見上げて、冴え冴えとした月をじっと眺めていた。

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