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八 楼主の女

 ふらふらと藍間屋に戻ってきた清之介は、がらりと戸を開けて店の奥へと入っていく。  一階の奥座敷に彼らの寝床や風呂場などがあり、二階が客間となっているのだが、一階で眠っているのは清之介と歳の近い少年ばかりで、菊之丞らのような青年たちは二階で客を取り、彼らを帰したあとはそこで眠るのが常である。  寝間に戻り、足元でころころと眠っている二人の弟分のそばに、清之介はしゃがみ込んだ。ついさっき貴雪にされたように弟分の頭を撫でてやると、何となくこちらまで穏やかな気持になってくるような気がする。  ――旦那は、俺といてこんな気持なのかな……。  清之介はふとそんなことを思いながら立ち上がると、喉の渇きを覚えて厨房の方へと脚を向けた。 「よぉ、また朝帰りか」   井戸端で、宗次郎が煙管を吹かしている。客に出す食材の仕入れは全て宗次郎が行なっているため、朝が早いのだ。ひっくり返した桶の上に腰掛けて、宗次郎は清之介に微笑んだ。 「……あぁ。あ、これ金だ」 「ほいよ、ご苦労さん」  懐から、貴雪にもらった金子(きんす)を取り出して宗次郎に手渡す。要らないといったのだが、貴雪に押し付けられるようにして持たされた金だった。  一晩君を借りたのだから、と。 「今日は文句は言わねぇのか。お前、客が帰るといつも俺に文句言いに来るだろ」 「……文句なんかねぇよ」  清之介は水を飲み、ついでに頭から水をかぶった。まだ火照りの取れない身体が、井戸水で引き締まる。 「何やってんだ、びしょびしょじゃねぇか」  飛沫を浴びた宗次郎が呆れたようにそう言う。清之介は、ため息をついて頭をふって水を飛ばした。 「今日は花巻さんとこ行くんだろ。さっさと着替えろよ」 「うん」 「ん? どうしたんだよ、気持ちわりぃくらい大人しいな。何かあったか」 「いや……別に」  歯切れの悪い清之介を訝しげに見つめていた宗次郎は、はっとしたように表情を固くする。 「おいおい、まさかあの若旦那、実はものすごい変態野郎で、何かとんでもねぇことされたんじゃねぇだろうな!」 「えぇ? 違うよ、んなわけねぇだろ」 「いいや、人は見かけによらねぇってこと、俺たちは誰よりも分かってるからな」 「変態野郎なんかじゃねぇよ。……むしろその逆だ」  清之介は宗次郎に、胡屋での一夜のことを話してみた。宗次郎は煙を吐きながらそれを聞いていたが、話し終えた清之介を手招きして、首に引っ掛けていた手ぬぐいを頭に被せ、がしがしと髪を拭う。 「ほう、んでただ気持よくしてもらって帰ってきたってわけか」 「……うん」 「まぁ稀にそういう奴もいるけどね」 「そうだろうけどさ。俺、兄さんたち以外に、あんなに優しくされたのは初めてだから、どうしていいか分からねぇよ」 「まぁ俺たちは玄人だからな。しかしその旦那、なかなか遣り手だねぇ。あの若き花魁さまが夢中になるわけだ」 「……そうだなぁ。姉さんに会いづらいよ」 「はははっ、その歳で客の取り合いか。しかも花魁相手に、そんでお前のほうが有利ときた」 「何面白そうにしてんだ」  髪を拭われながら、むすっとふくれっ面をして宗次郎を見上げると、彼は煙管を咥えたままにやりと笑った。 「旦那は上客だし、しかもうちとは商売がらみの取引相手にもなる。まぁせいぜい仲良くするこった」 「……分かってるよ」 「身体が熱いなら、俺が抱いてやろうか」 「……いい。朝飯食って着替えねぇと」 「遠慮すんなよ。俺には慣れてるだろ」 「いいって。宗兄は昨日は客いなかったのか? たまってるのかよ」  清之介に邪険にされて、宗次郎はまたからからと楽しげに笑った。 「昨日は大名屋敷に呼ばれてね、年増のねぇさんを二人ほど喘がせてきた」 「……あっそう。そのくせに朝から仕入れいって、更には俺とやろうってか。どんだけ精力あるんだよ」 「ははっ、まぁ俺ほどになるとこれくらいは朝飯前なのさ」 「楽しそうだね、宗兄は」 「まぁお前くらいの時は、嫌気が差すこともしばしばだったがな。ま、生きてりゃいいこともあるさ」 「……」  清之介は宗次郎の手からひょいと逃れると、濡れた髪を掻き上げて宗次郎を見た。見るからに健康そうで、逞しい身体つき、おまけに爽やかな男前ときている宗次郎の明るさは、まったくもっていつも羨ましくなる。 「平和でいいね、兄さんは」 「まぁな。ほら、さっさと飯食え。それから、床を濡らすなよ。菊の野郎がうるせぇから」 「はぁい」  清之介は身軽に裏口から中へ入っていく。宗次郎はぷかりと煙を吐き出して、今日もよく晴れた夏空を見あげた。 「平和ねぇ」  ふと真面目な顔になった宗次郎は、煙管から灰を落として腰を上げた。  ❀ ❀  それから数日後、私が帳簿をつけていると、紋吉がやってきて傍らに腰を下ろした。顔を上げると、どことなく心配そうな顔がそこに見える。 「……なんだい」 「貴雪さん、最近どうしたんだい」 「え?」 「なんかたまにぼうっとしちゃってさ、夏ばてでもしてるのか? うなぎでも食いに行くか?」 「私が? ぼうっとしてたかな」 「してるじゃねぇか。自覚ないのか」 「……あまりないかな」 「なんか悩み事でもあるなら……。あ、また花巻になんか意地悪されたのかい?」 「いやいや、意地悪だなんて。あははっ」  まるで過保護な親が子どもの喧嘩を心配しているような口ぶりに、私は思わず笑ってしまった。拍子抜けしたような顔をする紋吉の肩をぽんぽんと叩き、私は微かに滲んだ涙を指先で拭った。 「まぁ……暑さにはあてられているのかもしれない。そうだな、そのうちうなぎでも食いに行こう。お土岐さんとお圭ちゃんも呼ぶといい」  私は紋吉の家族の名を挙げてそう言った。 「夏ばてなら……まぁいいんだが。今夜はうちで食いなよ、なんか精のつくもの拵えさせるからよ」 「すまないね、いつも」 「ほんとのほんとに、旦那も早く嫁さんもらいなよ。一人でいるから不調を起こすんだ」 「そうかなぁ」 「今なら、あんたは立派な商人なんだ。どんな女だって喜んで嫁に来てくれるって」 「そうだといいけどね」 「ほら、すぐそうやって気のない返事をする。俺、本当に探してやってもいいんだぜ。いくつか伝手(つて)はあるんだし」 「……うーん」  紋吉の攻めに私が答え倦ねていると、ごめんくださいまし、と女の声がした。これ幸いと私は紋吉の横をすり抜けて立ち上がった。 「いらっしゃいまし」 「あら」  帳場に正座をした私を見て、その婦人は目を丸くした。 「お若いとは聞いていたけれど、本当にお若いのね。それに、思った以上に色男だこと」 「え?」  齢四十あたりだろうか、婀娜(あだ)っぽい魅力のある婦人だった。大振りの牡丹の柄が描かれた派手な着物を身に纏い、髷にはやや白髪の混じっているものの、真っ赤な紅のよく似合う女である。実際、後ろで紋吉がごくりと唾を飲む音が聞こえてくる。 「わたくしは、藍間屋の主人をしております、なつ江と申します」 「あぁ、どうもこの度は、お引き立ていただきありがとうございます」  私は両手を揃えて深々と頭を下げた。紋吉がすかさず座布団を勧めると、なつ江は微笑んで帳場に腰を下ろした。 「うちの子が、お世話になっているそうで」 「あぁいいえ……。色々と意見をもらって助かっていますよ」 「あら、そう。まだまだ雑なところは多い子ですが、今後も仲良くしてやってくださいましね」 「はい、こちらこそでございます」  しばらく商談をし、なつ江は今手元にある男物の反物を一通り見ていく。やはりどちらかというと派手目な模様を好むようすであったため、新たに大柄ものを作らねばならないなぁと考えながら、なつ江の話を聞く。 「あぁ、これなんか菊之丞によく似合いそうだこと」 「本当ですね、涼し気なお顔立ちでいらっしゃるし」 「あら、菊にもお会いになったことがあるの?」 「ええ、お店の前で少しだけ」 「あの子は男相手のほうが気が楽だといってね、女の方たちにもそれはそれは人気があるのだけど」 「そうでしょうね」 「清之介も、いずれは菊之丞のようにお店を引っ張っていって貰いたいと考えていますのよ」  その言葉に、私は僅かにひっかかりを覚えた。  あの子は学びたがっている、それを吸収出来るだけの能力もある。それを……あのままあの世界で眠らせてしまうことが、果たして彼の幸せにつながるのだろうかと。 「……清之介どのも、きれいなお顔立ちでございますからね」 「そうでしょう。今後共、どうぞご贔屓に」 「……はい」  数枚の染抜紋を購入したなつ江のために、紋吉がてきぱきと風呂敷包みにする。なつ江が声をかけると、暖簾の向こうから大柄な男が姿を表し、紋吉から風呂敷包みを受け取って頭を下げる。 「では、残りの品物はまたお店までお届けに参ります」  そう言って私が指を揃えると、なつ江は立上って艶やかに微笑み、「ええ、お待ちしていますわ」と言った。  意味深な目線と、きつい香の匂いを残して立ち去ったなつ江の姿に、紋吉などは完全に惚けてしまっている。さらに、店の奥からも平三を始め男衆が完全に手を止めて、そこにはもうないなつ江の姿を追っているのを見て、私は溜息をついた。  ぽんとひとつ手を打つと、はっとしたように皆動き始める。紋吉は私をしげしげと見つめて言った。 「貴雪さん、いつの間にあんな色っぽい姉さんと知り合いに?」 「玉屋の紹介さ」 「あんな女将、いたっけな。どこの店だい?」 「藍間屋という茶屋だ。まだ新しい店らしい」 「へぇえ、そこの遊女ともすでに知り合いなのかい? あの口ぶりじゃ」 「遊女じゃないよ、陰間の見世だ」  私は少し声を潜めて、紋吉にだけ聞こえる声でそう言った。紋吉は驚いた表情を浮かべ、私を見る。 「貴雪さん、そういう好みだったんかい? あぁ、だからずっと嫁をとらず……」 「違う違う。言ったろう、花巻の嫌がらせだよ。自分になびかなかったから、私が男色家だと思い込んだのか決めつけたのか……それでその店の者をここへ送り込んできたんだ」 「あぁ、あん時の」 「話をしてみれば、なかなかに聡い少年でね。こういった装飾品にも詳しかったもので、付き合いをしてみてもいいかなと思ったんだ」 「なるほどねぇ。嫌がらせも商売に変えちまうとは、なかなかやるじゃねぇか」 「まぁ……繋がってよかったな。あの子には感謝しなくては」 「どんな子なんだい?」 「まぁ……さすがにきれいな顔立ちをした少年だよ。あの店は、そういう色男しかいないんだ。店にいると居心地が悪い」 「尻を狙われそうでってか? あっはははは! 貴雪さん、どっちかっていうと襲われそうな顔してるからなぁ」 「やめてくれ。これは仕事だ」  紋吉は面白そうにばんばん私の背中を叩いて大笑いしている。私は苦笑いした。 「ってことは、あの女将さん、色男を侍らせているってことかぁ……すごいたまだな」 「まぁ、おしゃべりはそのくらいにしろよ。仕事に戻ろう」 「お、そうでしたそうでした」  ぺん、と紋吉は膝を叩いて立ち上がる。再び新たな客人が現れ、私はすぐに立ち上がった。  ✿ ✿  藍間屋との取引が始まり、しばらくは清之介の姿を見ない日が続いていた。代わりに、私は宗次郎とよく顔を突き合わせるようになり、同じ年ということもあってか、徐々に親交が深まっていっていた。  たまにふと気になって、清之介の動向を尋ねると、「あいつは最近人気者でね。今も眠ってるさ」という言葉が帰ってくる。その言葉に私が少し表情を曇らせると、宗次郎は唇の片端を吊り上げて少し笑う。 「お気に入りを取られて悔しかい」 「いや、そういうわけではないよ」 「ここんとこよく指名してくる奴がな、結構なお大尽でな。旦那のとこに行きたくても行けないのさ」 「……何も言っていないだろう」 「いやぁ、旦那もあいつのこと、どこか特別みたいに見えるからな。他のやつならいくらでも回してやれるんだが」 「だから違うって言ってるだろう」  藍間屋の奥まった席でそんな話をしていると、ふらりと菊之丞が現れる。真昼間なので寝起きなのか、少し腫れぼったい目元をしているが、それでも彼は充分に色男だ。 「おやおや、胡屋(えびすや)さんじゃねぇか」 「どうも、お世話になっております」 「いい着物が増えて、その手の客には大好評だぜ。まぁ何を着るにしても、俺がそもそも色男なんだから仕方ねぇな」  そんなことを言いながら、菊之丞は私の隣に座ってくる。思わず少し尻をずらすと、向かいの宗次郎がげらげらと笑った。 「おいおい、あんまり近づいてやるな」 「いいじゃねぇか。俺も品のいい男は大好きだぜ」 「……はぁ」 「清之介ばかりじゃなく、たまには俺とどうだい」 「いえいえ、そんな……」  菊之丞はからかうように私に顔を寄せて、目を細めて私を覗きこむ。切れ長の涼しい目元は、驚くほどに睫毛が長く、鼻も尖っていることに気づく。 「起こしてやんなよ、宗次郎。清之介も旦那に会いたいだろうさ」 「あ、いいえ。眠っているのなら、寝かせてやってくださいな。私はそろそろ御暇いたしますから」  放っておくと絡みついてきそうな菊之丞の長い手足から逃れるように、私は立ち上がった。宗次郎は尚もにやにやと笑い、私を見送るべく立ち上がる。 「何なら、今夜はそっちに行かせるぜ」  店先で、宗次郎はそう言った。私は一瞬、答えに詰まる。  そうして欲しいと思ったことに、少しばかり驚いていた。たった二週間ほど清之介の顔を見ていないことが、えらく寂しいことに思えたのだ。 「……」  私が黙って答え倦ねていると、宗次郎はふっと笑って手を挙げる。 「了解、今夜は旦那のところだ。風呂入って待ってな」 「あ……」 「まぁゆっくりするなりまぐわるなり、好きにしてくれたらいいぜ。きっと清之介も喜ぶさ」 「……そうかな」 「まぁ俺も、脂っこい親父のとこにあいつをやるよりは、旦那のところに行かせるほうが気が楽ってもんさ。じゃあな」  宗次郎は懐手をしたまま、笑みを残して見世の中へ戻っていく。   そろそろ喧騒に包まれ始めた夕暮れ時の吉原には、ちらほらと赤い提灯に火が灯りはじめた。

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