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九 迷子

   宗次郎の言うとおり、その晩清之介はやって来た。  今日は以前のように供を連れて、なかなかに艶やかな朱と黒の色の入った着物を身に纏っている。それは私が誂えたものであったが、色の白い清之介にはとても良く似合っていた。 「……よく似合う」  母屋の玄関先に立っている清之介にそう言うと、彼は微笑んでお辞儀をした。供の男を前のように玄関先に座らせて、清之介だけが奥へと上がってくる。 「久しぶりだな、旦那」 「ああ、忙しいそうだね」 「うん……まぁ、相当稼いだからいいんだ」 「今夜はゆっくりしていくといいさ。なにか食べるかい。葛餅をもらったのがあるんだが」 「うん、食べる」  笑顔でそう言い、正座を崩す清之介の顔は、以前よりも少し痩せて疲れているように見えた。気休めにしかならないと分かっているが、甘い葛餅と熱い茶を用意してやると、清之介はほっとしたようにため息をつく。 「うめぇな、溶けそうだ」 「そうだろう。京土産だから」 「京か……旦那が行ったの?」 「ああ、ちょっと仕入れにね」 「へぇ、いいなぁ」 「君にも見せてやりたいよ、京には美しいものがたくさんある。寺や町並みもいいが、そこで扱われている品物たちもとても雅だからね」 「へぇ……行ってみてぇな」  清之介の口調は、半ばそれをすでに諦めたような、力のない音をしている。私ははっとして、清之介を見た。  吉原で囚われの身である彼に、都へ行く機会など一生無い。私は軽はずみなことを言ってしまったことを、悔いた。 「少し痩せたか」 「……そうかな。背が伸びねぇな」 「おいで」  あまりにも儚げに見える清之介に、私は何も考えずにそう言っていた。少しばかり涼しくなってきた夜に、清之介があまりに寒そうに見えたからだ。  彼は目を丸くしたが、差し伸べた私の手を見て、安堵したように笑う。湯のみを盆の上に置き、清之介は四つ這いで私に近づいてきた。  そのままその細い身を抱きしめると、清之介が大きく息を吐くのが分かった。背中に回った腕が、ぎゅっと私の羽織を掴む。肩口に顔を埋め、私にしなだれかかるようにして体重を預ける清之介の身体は、やはり以前よりも少し痩せてしまっている。 「……旦那」 「ん?」 「俺が汚くないのかい」 「え? 何故」 「忙しいってことはさ、毎晩男相手に色んな事されてるってことだよ。旦那みたいなちゃんとした人から見たら、そんな俺は汚くないのか」 「汚いだなんて、思ったこともないよ」 「……本当かな」 「どうしたんだい、そんなことを言うなんて」 「ちょっと疲れただけだ……」 「そう、か。もう眠るといいよ」 「うん……」  隣の寝間に連れて行くと、清之介は着物を落として単姿になる。髪を解き、彼はいつものようにそそと布団に転がった。 「何もしないのに、何で俺を呼ぶんだい」 「……前も言ったろう、君と話がしたいと思ったんだ。それに、この間は何もしなかったわけじゃないだろう」 「あ、そっか」  清之介は私にしがみつく。私は肘枕をしたまま彼の背を抱き、つるりとした黒髪を弄んだ。 「元気なときに、珠算でも学んでみないか」 「珠算……そろばん?」 「ああ。君は物知りだ。金勘定が出来るようになっておくと、ゆくゆく宗次郎さんや女将さんの役にも立てる」 「……そっかぁ。いいかもしんねぇな」  私の腕の中で顔を上げた清之介の目に、少しばかり明るい色を見つけた私は微笑む。彼はやる気があるようだった。 「でも旦那、金払って俺に珠算教えるのか?」 「若者を育てるのも大人の役目さ。それに、藍間屋さんはもう立派な取引先だからね。なにか手伝ってもらえることもあるだろう」 「そうか。身体を売る以外にも、俺にできることがあるなら、やりたい」 「じゃあ……これから毎週、この曜日に、私のところへおいで」 「え、毎週? 高く付くぜ」 「今の私には、それくらいの余裕はあるのさ」 「頼もしいね」  清之介は今夜初めて、明るい笑顔を見せた。そして再び私にぎゅっとしがみつくと、浴衣に頬ずりする。 「ここにいると安心する」 「そうか」 「もうずっと……ここにいられたらいいのになぁ」  消え入るような清之介の声に、私は彼の顔を見下ろした。ほどなくすぅすぅと平和な寝息を立て始めた清之介の頭を撫でながら、私はふとした考えを閃いていた。  今の台詞が本心であろうということは、身体を通じて伝わってくるものがあったからだ。  私はごろりと仰向けになり、長い黒髪を指に絡ませながら、しばらくその考えが実現可能であるか、考えていた。  ❀  夜が明けてすぐ、清之介は供の翁と共に藍間屋への帰路についていた。  翁はいつも何も喋らず、ただ影のように清之介の前をゆく。何か客との問題が起こった時に、こいつで片がつくのだろうかという疑問が毎度のように頭をよぎるが、宗次郎が信頼しているので従っている。  しかしその翁は、吉原に入る手前の道で、ふと声を出した。 「清之介さんは、胡屋の旦那と会うようになってから、変わったね」 「え?」  ぼんやりしていた清之介は驚いて、前を歩く翁の痩せこけた背中を見る。声を聞くのも初めてで、喋れたのかと意外に思った。 「そうさね……弱くなった」 「俺が?」 「あぁ、そうだね。情を感じて、あの若旦那が特別な存在になってしまった。そうなると、他の客に抱かれる自分を汚らわしいと思ってしまう。客にとっても迷惑な話だ。あんたは客をも汚らわしいもんだと思うようになってくる」 「……何、言ってんだてめぇは」  図星をつかれ、清之介は剣のある視線を翁に向けて立ち止まる。翁はゆっくりと歩きながら、無表情な声で言った。 「あんたはまだ若い。そういうことが起こるのも仕方なかろう。菊之丞さんも、宗次郎さんにも真に想う相手がいるようだし」 「……」 「でも、出会うのが早すぎたね。まだまだ仕事に不慣れなうちに、あんな上客と出会っちまった」 「不慣れだと? 俺はもう二年も、この仕事をこなしてきたじゃねぇか!」 「そうやっていきり立つのが未熟な証拠さね。……とっととあの旦那にも抱かれて、客の一人だと身体に分からせるこったね」 「……でも、あの人は」 「あんたにしゃぶられて、今朝もいい声出してたじゃねぇか。やれるさ、あんたなら」 「聞いてたのかよ」 「それが俺の仕事だからね」  翁はそれっきり、何も喋らなかった。清之介は、その場に縫い付けられたように動くことができず、唇を震わせてその場に佇んでいた。  朝もやが、徐々に晴れていく。  しんとした空気の中で色街の大門が、妙に毒々しく、目に映った。

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