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十一 周知
「……なんだって」
宗次郎は、こざっぱりして帰ってきた清之介を見下ろして、思わずそう聞き返していた。
真昼間の井戸端で、いつものように宗次郎が煙管を吹かしているところへ、清之介が話をしに来たのだ。
昨晩、供の翁だけが店に戻り、どんな状況が繰り広げられていたのかを聞き及んでいた宗次郎は、眠らず清之介の帰りを待っていた。
胡屋に送り届けた後は追い返されたのだという翁の言葉に、さもありなんと理解はしていた。加えて、翁は先日清之介に言ったことを宗次郎に話して聞かせたのであった。
いずれはそういうことになるのではないかと思ってはいたものの、宗次郎にとって、それは予想外に早く訪れた結末だった。
なつ江は反対するだろう、せっかく稼げるようになってきた清之介を、こんないい時期で手放すというのは彼女にとって良い計算になる話ではない。
目の前にいる清之介は、ぎゅっと拳を握りしめ、うつむいて唇を噛んでいる。まだどうしていいか分からないのだろう。加えて、宗次郎が懸念しているなつ江のことや、胡屋の評判、この世界以外で自分が生きていけるのかどうか……色々と不安が沸き起こっているに違いない。
「お前はどうしたいんだ」
「……旦那に言われたことは、嬉しかった。でも、これでいいのかなってさ」
「それで俺に相談を。旦那はなんて言ってるんだ」
「こちらにも準備があるから、二、三日待ってくれって。それから、おっかさんに話しに来るって……」
「金の話か」
「……うん」
「結構ふっかけると思うぜ。百……二百は取れそうだもんな、あの店なら」
「……そんなに」
「お前はちょうどいい時期だ。慣れすぎているわけでもなく、何も知らないわけでもない。身体つきもちょうどよく中性的で、顔立ちだってどんどんきれいになってきているんだから」
「……」
「これからって時だ、母さんが一体何と言うかな。あそことは取引があるし、どんな条件を出してくるやら」
「……断ったほうが、いいのかな」
「ん……。しかしまぁ、翁から昨日のことは聞いた。あの大外藩主の親父、最近ここいらの他の店でも結構派手に遊んでてな、遊女に手を上げたりすることもあったそうだ」
「……」
清之介の肩が震えるのを見て、宗次郎は表情を曇らせる。
宗次郎がそっと清之介の頭を撫でると、清之介はなんとも言えない顔をしたまま、宗次郎を見上げる。
「時にお前、旦那とは致したのかい」
「……いいや」
「あの人も変わってんな。お前の身体が欲しくて身請けするなら分かるが」
「……うん」
「何か他に、お前に惹かれる理由があったのかねぇ」
「知らねぇよ。……でも、俺を一端の商人にして新しい人生を歩めるようにしてやるって……俺の可能性を買うって言っていた」
「あぁ、旦那んとこで学問してたんだったな。まぁお前は他のやつと違って頭の出来もよさそうだから、それが出来るならそっちの方がいいに決まってら」
「できるかな、俺に」
「そこはお前の頑張り次第さ。……まぁ、身請けしてもらうんなら、一回くらい旦那にも抱いてもらえよ。お前の値段は、その身体込なんだ。その辺をようく分かってもらっとけ。陰間の仕事がどんなもんなのか、いまいち理解はできてねぇみたいだからな」
「……そうしたいけど」
宗次郎はひっくり返した桶から立ち上がると、ぐいと清之介の顎を掴んで上を向かせる。澄んだ大きな瞳を覗きこみ、ふと宗次郎は真顔になる。
「俺と接吻できるか」
「え……」
「相変わらず、旦那としかしねぇんだろ」
「……」
清之介の目が揺らぐ。顔を背けようとするのを、指に力を入れて力づくで押しとどめると、戸惑ったように清之介が宗次郎を見上げた。
「お前はなんで、あの旦那が気に入ったんだ? 優しいからか?」
「そりゃ、それはあると思うけど。……よく分かんねぇ。優しいだけなら、宗兄も菊兄も優しいだろ」
「まぁな、お前は俺の可愛い弟分だから。まともな世界にいる旦那に、憧れたのか」
「それもあるかな」
「お前があいつにだけ唇を許す理由が分からねぇな」
「俺だって分かんねぇよ」
「してみるか、俺とも」
「……やめろよ。金とるぞ」
「いいよ、いくら欲しい」
「宗兄……何いってんだ」
「身請けされる前に、俺とも一回やらねぇとな。値段をお前につけてやる」
「……本気かよ」
「あぁ、お前を最初から仕込んだのは俺だぜ。母さんよりもずっとお前のことを分かってるつもりだ。だからこそ俺がやるんだ」
「……」
「嫌か。もう旦那以外の男に触れられるのは」
「……別に。でももう、宗兄は……家族みたいなもんだと思ってたから、なんか変な感じだな」
「家族、ね。泣かせること言ってくれるじゃねぇか。でもな、俺にとってはお前も客の女どもも変わらねぇよ」
「……嘘だ」
「嘘じゃねぇ。最近人気の出てきたお前と、そろそろもう一回くらいやりてぇと思ってたからちょうどいいや」
「……宗兄が、そんなこと……」
「この世界はそういう世界だ。それが分からねぇお前は、とっとと出て行ったほうがいいのかもしれねぇな」
傷ついた目をした清之介を見て、宗次郎の表情も揺らぐ。しかしそれをすぐさま隠すように、宗次郎は唇を吊り上げて笑った。
清之介は宗次郎の胸を乱暴に突いて身体を離すと、悔しげに唇を噛み締めて俯いた。握りしめた拳が、体側でぶるぶると震えている。
「そんなわけだからよ、母さんには俺から言っとく。そんで今夜は、お前は俺の部屋へ来い。いいな」
「……」
「逆らえねぇからな。絶対に来いよ」
「……分かった」
地面に転がっていた煙管を拾い上げ、宗次郎は鼻歌交じりに店の中へ戻っていく。固めた拳をぶつけるあてもなく、清之介は血が出るほどに唇を噛み締めた。
兄と慕っていたのに、何でも話せる友人だとも思っていたのに。そんな感情すら、ここでは抱いてはいけないというわけか。
全てが虚しくなってきた。ここで得たものとは一体なんだ。
いや、得たものなど一つもない。
ただ貪られてきただけ。ここに売られてきたあの日から、ずっと。
❀
私の目の前で、紋吉とその妻お土岐が難しい顔……というよりも狐につままれたような顔をしている。
「……本気で言ってんのかい?」
紋吉は鋭い鷹のような目をまん丸にして、再度私に確認した。私は頷く。
「ああ、本気だよ」
「藍間屋の子ってことは……陰間なんだろ」
「ああ、そうだ」
「その……貴雪さんは、そういう好みだったのかい?」
「いやいや、そういう訳じゃない。そういった理由でその子買おうと言っているわけじゃないよ」
「でもさ、相当な額をふっかけられるんじゃないのかい?」
と、隣で腕組みをしていたお土岐がそう言った。
私は両親が馴染みの商家からもらってきた縁談話でここへ来たお土岐を見て、頷く。
「そうだね、百両は、という話だ。もっと吊り上げてくるかもしれない」
「そんな大金……! どうするつもりですか」
金額にお土岐は目を剥く。紋吉も、うへぇと声を上げた。
「私個人の資産から出せなくもないさ。まぁまた嫁をもらう機会が遠のきそうだがね」
と、私が微笑むと、二人は目を見合わせてため息をつく。
「そりゃあまぁ、旦那は全く遊びのない人だから、それくらいは貯めてるのかとも思ってたけど。こういったことに使っちまって、いいのかい。騙されたりしてないよね」
「ああ、大丈夫だよ。それに、あの子にはすでにかなり知識をつけている。作法も、店で躾けられているから問題はないし、字も読める」
「……」
もう一度、二人は目を見合わせる。
「私の遠縁の親戚だという話で、合わせておいてくれないか。この店で働かせながら、新しい生計 の道をつけてやりたいんだよ」
「なんでその子にそこまで?」
と、紋吉。
「そうだよ、いい仲なのかい?」
と、お土岐。
「……そういうわけじゃない。なんでだろうな……あの子は花巻に送られてここへ来た時から、私の仕事にとても興味を持っていた。いろんなことを知りたいと言ったし、実際飲み込みも早かった。商品知識も豊富だよ、花魁たちとも付き合いが多いしね」
「ふうむ……」
紋吉が唸り、お土岐は困った顔のまま片手を首筋に添えた。
困惑されるのは分かっていた私は二人の前に指を揃えて、深々と頭を下げると、二人は慌てたように「ちょっと、やめなよ」と声を上げる。
「頼む。あのままあの子を、あの世界に置いておきたくないんだ。賢い子なんだよ。私は、あれくらいの年の頃、二人にとても助けられた。この恩は、一生かかっても返せないだろう。私があの子のようにならず、今こうしていられるのも、二人がいるおかげなんだ。私にはそうして、助けてくれる大人がいた。でもあの子にはいない。私は、あの子の変わりたいという願いを助けてやりたい。二人がそうしてくれたみたいに」
畳に頭を擦り付けるようにして、いつになく熱っぽくそう訴える私を見て、二人は動きを止める。
自分でも何故、清之介にそこまでしてやりたいと思ったのか、ずっと考えていた。そして今言ったことが、結論だった。
両親の残した店を取られそうになったとき、身ぐるみ剥がされそうになったとき、この二人が留まってくれたおかげで私は難を逃れたのだ。
何も分からない子どもだった私から、大人たちが財産を奪っていくことなど造作も無いことだ。でも、この二人が回りの強欲な大人を説き伏せ、時にきつい言葉をかけて追い払い、私とこの店を守ってくれた。
十年近く前のことだが、今でも覚えている。後ろ盾のない、背筋の寒くなるような不安も、足元が抜け落ちて地獄まですとんと落ちていってしまいそうな恐怖も、この二人がいたからこそ乗り越えることができた。
「……あの子は、ずっとあそこにいるべきじゃない。もっといろんな世界を見るべき子だ。頼む、二人に隠し事はしたくないんだ。私と一緒に、あの子のことを育ててやって欲しい」
「貴雪さん……」
紋吉が、ずずっと鼻をすする音がした。私はじっと畳に額をつけたまま、もう一度「お願いします」と言った。
「もういいよ、旦那、顔を上げとくれ」
お土岐のふっくらとした熱い手が私の肩に触れる。私がゆっくりと顔を上げると、お土岐の微笑んだ顔が見えた。
「旦那はその子に、昔の自分を重ねてるってわけだね」
「……そうだと思う」
「その子、本当に使い物になるんだろうね」
「なる。最初は戸惑うかもしれないが、あの子なら大丈夫だ」
「……そうかい。あんたがこんなに熱心に私らに頼み事してくることなんて、珍しすぎてたまげたけど。……まぁ、旦那がそこまで言うなら。息子がもう一人増えるようなもんだと思って引き受けるよ」
「お土岐さん……!」
お土岐は私の肩を叩いて、にっこりと笑った。艶の良いまん丸な顔に笑顔を浮かべて、お土岐は私の背筋を伸ばさせる。
「俺も、いいよ。鍛えてやるよ」
未だにぐすんと鼻を啜りながら、紋吉もそう言った。
私の安堵した顔を見て、紋吉は表情を引き締めてこう言った。
「でもな、妙な噂は立つに決まってる。その子のことを、知っている輩だっているかもしれねぇんだからな。その時はどうするんだ」
「取引先で生き別れた親戚を見つけたというさ。あくまであの子は、うちの身内ということにしたい」
「……分かった。それで話を通そう。まぁもともと吉原と縁が深いうちのことだから、面倒なことにはならないと想うし」
「あとは藍間屋との話し合いだなぁ。ちょっとは値切らなきゃだめだよ、なんならあたしが行ってやろうか」
お土岐が勇ましく袖を捲り上げてたくましい腕を晒すのを見て、私は笑った。こうして強い味方が出来たことで、一つ肩の荷が下りたような気がした。
「いやいや、そこは私が頑張るよ。そこまでお土岐さんに迷惑かけるわけにいかないから」
「そうかい? 旦那は押しが弱いからなぁ」
「肝に銘じるよ」
「その子の名は?」
と、お土岐。
「……清之介だ」
二人に彼の名を伝えたことで、この一件がようやく現実的に感じられるようになった。
ここにあの子を迎え入れる準備は、徐々に整いつつある。
清之介は、今どのような心持ちでいるのか。宗次郎には相談すると言っていたが、首尾よく進んでいるだろうか。
私はそんなことを思いながら、温くなった茶を一口飲んで、唇を潤した。
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