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第3話

 談話室のソファにおさまっている美月のそばに、ふわふわとした足取りで頬のまるいオメガが寄ってきた。 「美月さん」  ん? と視線だけで答えると、彼はモジモジしながら美月の隣をチラチラと見る。ああと気づいて隣を叩くと、彼はうれしそうに腰かけた。 「あの……僕、真澄っていいます。美月さんは、財前さんのお気に入りなんですよね」 「ああ、まあ……そうなるみたいだね」  他人事な言い方に、真澄はキョトンとした。まだこの館に来て日が浅いのだろうかと、美月は彼を見る。真澄は美月の視線にはにかんで、照れくさそうに「えへへ」と肩をすぼめた。 「財前さんはいつも、何人も呼ぶって聞いたんですけど、どうやったら呼ばれるようになりますか」 「え」  意外な質問に美月がポカンとすると、真澄は慌てて両手を振った。 「あの、違うんです。美月さんから奪おうとか、そういうつもりじゃないんです。あの、ええと……なんていうか……あんなに素敵な人に、一度でいいから呼ばれてみたいなぁって」  ふわっと頬を主に染めた真澄の頭を、美月は軽く撫でた。真澄が目をパチクリさせる。 「べつに、なにもしていない。どうして呼ばれているのか、僕にもわからないんだ」 「そうなんですか」  シュンとしてしまった真澄に、美月はほほえみを向ける。 「呼ばれるのは僕だけじゃない。ほかの誰かにも聞いてみたらどうだろう。――まあ、彼だけがアルファじゃない。君には君のアルファがいるよ」 「はい」  ポウッと夢見がちな顔で見つめられ、美月は彼の額にキスをした。真澄が真っ赤になる。 「あ、あの……っ」 「君のアルファと出会えますように」  首筋まで赤くしてうつむいた真澄を、かわいらしいなと美月は胸に抱きよせた。自分より華奢な肩に、彼はもう教育をほどこされているのだろうかと考える。  美月がこの館に収容されて、奉仕教育をおこなわれたのはひと月ほど経ってからだった。それまでは、この館がどんなものなのかをよく知らなかった。ただ、希少種であるオメガの、その中でも稀有な美貌を有するものだけが入ることのできる、特別な施設とだけしか聞かされていなかった。  どんなことをするのか、どんな内情なのかは外部には漏らされていない。ただ漠然と、選ばれたオメガは幸福になり、その家族は恩恵を受けるとだけしか知らされていなかった。  具体的なことをなにも知らされず収容された美月は、自分を手放す代償として、新しい家を建てられるだけの金額が両親に送られたと聞かされた。それがどのくらいの金額なのかを知らなかった。ただ、とてもたくさんのお金なんだとは理解できた。自分がオメガでうつくしく生まれたから、両親を幸福にできたのだと認識した。  ここでがんばって勉強をすれば、すばらしいアルファに見初められる。そうなれば両親は、もっともっとしあわせになれると教えられた。なるほどと納得し、美月はここになじもうと心に決めた。 (すばらしいアルファって、なんなんだろうね)  初心な真澄を腕の中に抱きながら、美月は自問する。  なにをもって、すばらしいと表現するのか。  収容され、奉仕の教育をされ、それがどういう行為であるのか理解するより先に、オメガ同士の遊びの中で技を磨いていった。対等な、くすぐり合いの勝負といったくらいの認識で、美月はほかのオメガたちと夢中になってたわむれた。それをしている間は、さみしさを忘れられた。そして、気持ちがよかった。  そんな日々を過ごしていると、ある日アルファに声をかけられて客室に呼ばれた。  教官の立ち合いのもと、はじめてアルファに奉仕をした日のことを、美月は忘れられない。  仲間同士の遊びだったはずの行為が、上位者への奉仕としか表現できない行為に変わった瞬間だった。  乱暴に扱われたわけではない。むしろ丁寧に――もどかしすぎて苦痛を感じるほど丁寧に、慎重にもてあそばれた。あの瞬間に、オメガはアルファの玩具であると美月は思い知らされたのだ。  同期入館のオメガに、そっとそれを打ち明けた美月は、それがどうしたのかと問われてしまった。彼はオメガ性と判明してから、両親に言い聞かされていたのだと答えた。見目のいいオメガとして生まれたら、アルファに飼われて過ごすのが一番しあわせなのだと。そうではないオメガが得られない、ベータがどれほど努力してもたどり着けない上流の生活を味わえるからと。  けれど、ただ玩具に甘んじていいわけではない。立場は変えられないが、優位性は変えられる。そのために自分を磨き、堂々としていればいいんだと教えられた。  ここにいる全員が、そんな認識でいるのかと美月はおどろいた。そう思っているものもいれば、よくわかっていないものもいると答えられた。けれどいずれ、その考えが正しいと知るはずだと、彼は年齢にそぐわぬ艶然とした笑みを浮かべた。――その彼はもう、アルファに引き取られてここにはいない。 (君は、どちらなのだろうな)  おとなしくしている真澄のつむじをながめて、美月は考えなくてもいいことを考える。談話室での時間は退屈だ。かといって、部屋に戻っても退屈だ。どちらもおなじ退屈ならば、すこしでも自分の身を安全にするために、談話室が解放されている時間はここにいたほうがいい。  オメガたちのさえずりが情報となるし、この場にいれば声をかけてくるものもいる。そういうものの相手をすれば、お高くとまっているなどと妙な評価を流されなくてすむ。 (あの手紙は、この中の誰が送ってきたのだろう)  犯人捜しをしたいわけではない。ただなんとなく、ほかに思うことがないので視線を流す理由として浮かべただけだ。差出人が誰であっても、どうでもいい。勝手に思い込んでいる相手に、そうではないと伝えるのは労力がいる。その時間を、きちんと美月を美月として認識している相手に使う方が有意義だ。  この館に来て覚えたのは、奉仕の仕方とそんなことだった。あとは一般教養と言われる勉強と、本の中にある世界。そして世の中の簡単な仕組みと階級制。  部屋の隅で待機している護衛たちを軽く視界に映す。彼等ベータは数が多く、労働階級として扱われている。その中で健康な男子は三年の兵役訓練を課せられて、優秀なものはそのまま兵士として過ごし、あるいは護衛を仕事に選ぶ。護衛を選んだものたちの中で、さまざまな試験をパスしたものが『天使の館』でオメガたちに与えられる。  そんな仕組みを、オメガたちは知らされていなかった。ただ単に、自分たちの世話をしながら危険から守る役目を負っている、所有物とだけ言われていた。 (和真)  眠っているような顔をして腕を組み、壁に肩をあずけている和真を見つけ、美月は彼を手に入れた日を思い出した。  彼は美月にとって、三人目の護衛だった。はじめての護衛はほかのオメガに目がくらみ、そのオメガに求められて美月の護衛と交代になった。ふたり目の護衛は美月の色香に迷ったと言いながら手を伸ばし、解任された。  オメガ同士が同意をすれば、護衛の交換は簡単に行われる。合意がなされなければ、賭けをして護衛を奪い合う。  それも、娯楽のすくない館の遊びのひとつだった。  ひとり目の護衛に、美月は執着などなかった。だからそのまま、護衛を手放した。その護衛に襲われることになろうとは、夢にも思わなかった。  飛びかかられた美月は、なにをどう逃れたのか覚えていない。無我夢中で抵抗して部屋のドアを開けて助けを呼んだ。引きずりこまれてのしかかられて、乱暴をされている最中に教官たちがかけつけてくれた。あとすこし遅ければ、美月の体は蹂躙されつくしていた。  捕らえられた護衛は追放となった。そして新たな護衛を与えると言われた。恐怖が消えない美月は、護衛などいらないと拒絶した。気持ちが落ち着くまではと教官たちは相談の上、特例としてそれを認めた。  護衛のいないオメガは、アルファの客室に呼ばれても守ってはもらえない。だから美月は誘いをすべて断った。すると気位の高いオメガと評価され、美月の美貌と相まって極上の天使などと呼ばれはじめた。珍しいものとしてアルファたちの興味を惹くことになり、オメガたちには自分のアルファを奪ったと嫉妬を向けられることになった。  そんな中、現れたのが財前だった。財前は「ひとりで呼ばれるから警戒をするのだろう」と言って、ほかのオメガたちとまとめて美月に声をかけた。これを断れば自分の居場所はなくなってしまう。そう考えた美月は財前の誘いを受けて、多くのオメガたちとたわむれる姿を彼に見せた。  財前は美月にだんだん執着しはじめ、求めつつも自分が手を出すことはしなかった。極上の天使は未熟な天使たちに慕われるのがうつくしいと、ながめるにとどめている。不能なわけではない。興が乗ればオメガのひとりを指名して、口での奉仕をさせている。しかし美月にそれを命じたことはない。  彼に守られているのだろうかと、美月はだんだん思うようになっていた。彼が自分にとっての、すばらしいアルファなのではないか。彼になら引き取られてもいいとさえ考えるようになっていた。  そんなときに、和真と出会った。  そろそろ護衛をつけてもいいころだと判断した教官たちが、美月に彼を引き合わせた。必要ないと突っぱねるつもりでいた美月は、和真の姿を見た瞬間に警戒を解いていた。  まっすぐに自分を見つめる瞳に、美月は衝撃を受けた。媚びることも見下すこともない視線を受けたのは久しぶりだった。 (僕は、いつの間にか慣れてしまっていたのか)  アルファに選ばれる存在でありながら、見下されるオメガという奇妙な扱いに、美月ははじめて疑問を持った。自分たちはいったいなんなのかと考えた美月は、館に連れてこられる前に、父親に送られたものを思い出した。  引き出しの奥にしまわれていたそれは、なんの変哲もない小指の先ほどの大きさのボルトとナットだった。  それを手のひらに乗せた美月は、添えられた言葉を思い出す。 「ボルトとナットは、それぞれ片方だけでは用をなさない。どんなものでもいいから、単純に組み合わせればいいというものではないんだ。ボルトにふさわしいナット、ナットにふさわしいボルトでなければいけないんだよ」  どうしてそんな話をされるのかわからなかった美月は、疑問の顔で父親を見つめた。父親は苦笑しながら、美月の頭を撫でて言葉を続けた。 「ボルトはオス、ナットはメスとも呼ぶんだ。オスとメスがぴったりと合わさらなければ、すぐにゆるんで崩れてしまう。美月はこれから、美月にぴったり合う相手を見つけに行くんだ。この、ボルトとナットのように。だから、美月。ゆるんで崩れるような相手は、けっして選ぶんじゃないぞ」  あのとき、なにを言われているのかピンとこなかった。いまでは父親の顔もぼんやりとしか思い出せない。言葉もそのままであるのか、時間が過ぎるなかで記憶とともに変化してしまったのかもわからない。けれど重要な部分は変わっていないと、思い出した美月は言葉の意味を理解した。 (僕はオメガだからナットの役割。僕にとってのボルトを見つけなければ、すぐにゆるんで崩れてしまう。そんな未来を選んではいけないんだ)  その目を持って財前と会うと、彼が自分を優遇しているように見せかけて、見下していることに気がついた。彼はオメガたちを大切に、丁寧に扱って、その存在を尊重しているように見せかけているだけで、実際は人格を無視した道具としてしか扱っていない。美月に固執するのも、美月の人格を気に入ってのことではなく、誰にもなびかない極上のオメガを好きに扱っているという優越感と、ほかのアルファたちに対する自己アピールのためだった。 (和真は僕に、それを気づかせてくれた)  なにかをされたわけでも、言われたわけでもない。ただ彼は、この館に収容されてから美月が久しく忘れていた“対等の視線”を向けてきただけだった。  オメガに使われる護衛であり、アルファに雇われるベータでありながら、堂々としている彼の姿はそれだけで強烈なインパクトを美月に与えた。  淡々と任務をこなし、余計な口出しはせず、ただ美月を守ることを第一に考えて行動する和真。  そこには、どのような思惑も見受けられなかった。  ただ純粋に職務をまっとうしている和真の清廉な姿勢に、美月は興味を惹かれた。そしてはじめて自分から手を伸ばし、彼の体を使って遊んだ。和真はとまどいながらも拒絶はせずに、美月のするがままにまかせていた。  美月は何度も彼で遊んだが、和真が手を伸ばしてきたことは一度もない。それは美月にとっては最上の安堵となって、和真がいればアルファに声をかけられてもかまわないと思えるほどの信頼になった。  けれどすっかり、美月は財前のお気に入りだと周囲に広まっていた。いまでは財前のほかに、美月に声をかけてくるアルファはいない。 (だから、真澄のように財前に気に入られる方法を聞いてくるオメガがいる)  財前はそれほどいい男ではないと伝えたいが、それは自分の認識であって他者の評価ではない。美月というナットにとってのボルトではないだけで、財前が最高のボルトであるオメガはいるだろう。 (余計な口出しは、しないことだ)  それで事態がややこしくなったことがある。その時を思い出して、美月はうんざりした。 「あ、あの」  腕の中の真澄が遠慮がちな声を出した。記憶と考えにふけっていた美月は、腕の中の存在に意識を戻す。 「ん?」 「今度、お部屋に遊びに行ってもいいですか?」  どうやら彼は美月に親しみを感じたらしい。美月が笑顔でうなずくと、真澄はまた「えへへ」と笑って美月の膝に甘えた。軽く背中を叩いてあやしていると、鋭い視線が飛んできた。それを追うと、赤毛のオメガが鬼の形相をしていた。 (笑うとかわいらしいに違いないが)  そっと吐息を漏らした美月は、片手を伸ばして赤毛のオメガを手招いた。ハッと息を呑んだ彼は、叱られるのではと警戒しながら近づいてくる。 「ふたりは、仲がいいのかな」  膝に甘えていた真澄が顔を上げ、ふたりは見つめ合ってから首を振った。 「そうか。見たところ、同年代のようだし……まだ館に慣れていないみたいだから、いつでも僕の部屋に遊びに来るといいよ」  赤毛のオメガの顔が明るくなり、人なつこい笑みが広がった。 「ありがとうございます!」 (どうやら、僕に近づいた真澄に嫉妬をしたらしい)  チラリと真澄を確認すると、わずかに残念な色を浮かべながらも、赤毛のオメガにほほえみかけている。ギスギスした関係にはならなさそうだと、美月はホッとした。  ふと目を向けると、和真が目元をやわらげている。なぜだか気恥ずかしくなって、美月は目をそらした。  そんな美月に、剣呑な視線が向けられている。

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