5 / 22

第5話

 甘える動きで唇を食まれて、美月はまぶたを薄くした。祐樹の瞳が好奇心で輝いている。 (僕を試してみたいんだな)  心の底がうずいて、けれどその気になれなくて、美月は祐樹の唇をついばみかえすと肩を押した。 「なんだ。僕と遊ぶのはイヤなのか」 「そうじゃない。祐樹と遊ぶのは……たのしそうだなとは思うよ。思うけど」 「けど、なんだ?」 「その、昼間……だから、疲れているんだ」  言葉を濁すと、ああと祐樹は察した。 「財前さんに呼ばれたんだったな。それで、か」  ぎこちない笑顔で軽く首を上下に揺らすと、それならしかたないと祐樹は美月の頬に唇をあてて笑った。 「それじゃあ、都合がいいときに遊んでくれるか」 「それは、もちろん」  互いの首筋に唇を押しつけて、抱き合う。軽く背中を叩かれた美月は、すっぽりとはいかないまでも、祐樹の腕の中におさまってしまう自分に苦笑した。 「なに?」 「いや。――僕なんて、簡単に壊されてしまいそうだなと思って」 「美月が? 簡単に壊れるんなら、もうとっくに壊れているだろ」 「そうかな」 「僕よりも華奢だからって理由なら、美月よりもちいさい連中はどうなるんだよ。嫉妬でいやがらせを受けたとして、壊れるまではされないだろうし、そうなったとしても治療をされる。そうなる前に危険を感じて、アルファに引き取ってくれと泣きつくことだってできるだろ? でも、いままでそんなことはなかったんじゃないか」  美月がうなずくと、だったらと祐樹が顔中をクシャクシャにした。 「それは美月が強いからだ」 「僕が、強い?」 「ずっとここで庇護され続けているんだろ? 誰かに引き取られることもなく。だから美月は特別だって思われてる。それって、美月が強いからだ。なんていうか、力が強いとか体が大きいとか、そういうことじゃなくって、運が強いんだよ」 「――運」 「そう。だから、美月は簡単に壊れそうに見えても、壊れないんだよ。きっと、美月を壊そうとするやつのほうが壊れる」  自信満々に言い切られて、美月は「そうかな」とつぶやいた。 「そうだよ。運の強さも強さのうちだ」 「オメガに生まれたことも、運の強さだと思うのか」 「どうだろうな。そこんとこは、わかんないけどさ。でも、生まれてからこれからのことは、運の強さって大事だと僕は思うよ。だから僕は、この館に来られた。あの場所から逃げ出せたんだ」  細まった祐樹の目の奥に暗い炎が揺らめいて、美月の胸がギュッと縮んだ。 (ここに来る前の生活は、苦しいものだったのか。だから、どうしてここに来たいと思ったのか……なんて質問をしてきたんだな)  祐樹はすぐに暗い色をかき消して、それじゃあと立ち上がった。 「また、遊びに来る。いや、今度は僕の部屋に遊びに来てくれよ。きっと、そっちのほうがいいから」 「どうして」  つられて立ち上がった美月に、祐樹はニヤリとした。 「僕は美月とは違う意味で、人気者だからさ」 「?」 「いろんなやつが、俺の部屋に遊びに来るんだよ。美月はあんまり交流しないだろ? まあ、それはなんていうか、近寄りがたいってイメージができているっていうか、特別な存在って感じがあるからしかたがないのかもしれないけどさ。でも、べつに美月はそう扱われたいわけじゃないって、わかった。――そうだよな?」 「うん。僕はべつに、特別扱いなんてされたいわけじゃない。みんなが勝手に遠巻きにしているだけだよ」 「そこで交流しようとしない美月も悪いと思うけどな」 「交流しようとしないわけじゃない。ただ……なんというか」 「人見知りっていうか、人の輪に入る方法がわからないってところか?」 「そう……なのかな。無理をして交流しなくてもいいと思っているだけだよ」 「なんだ。ただのめんどうくさがりなだけか」  そんな評価をされたのがはじめての美月は、目をパチクリさせた。 「まあ、めんどうくさがりでも、僕の部屋に遊びに来れば誰かと交流しなくちゃいけなくなるからさ。いつでも適当に来ればいいよ」 「どういうことか、よくわからないな」 「にぎやかなんだ。いろんな連中が来るから」 「人気者だからか」  さきほどの自己評価をからかえば、祐樹はしれっと答えた。 「そうだよ。美月とは違うタイプのな」  いたずらっぽくウインクされて、美月は声を立てて笑った。 「そんなふうに笑えるんなら、もっとそうしていればいい」 「なにもないのに笑っていたら、気味悪がられるだけだろう」 「それもそうか」  ほがらかな笑いを交わしながら、こんなふうに笑うのはどれくらいぶりだろうと美月は考える。 (考えなければ出てこないほど、していなかったんだな)  スウッと冷たい風が心を過ぎた。 「まあ、そういうことだから。最初は入りづらいだろうし、僕が迎えに来てやるよ。財前さんがいないときに」  美月の顔がわずかに曇る。 「そう、だね」 「そんなにイヤなのか」 「道具になった気分になるんだ。あの目に見られていると」  底冷えのする財前の瞳を思い出しながら不満をこぼすと、ふうんと祐樹は鼻を鳴らした。 「でもそれは、しかたがないって」 「どうして」 「オメガはアルファの道具っていうか、犬や猫みたいなものっていうか。そういう立場だからだよ」 「そんなふうに考えていたのか」  おどろくと、冷静な目を向けられた。 「考えるもなにも、それが事実だろ。僕はここに来るまでに、世の中ってのはそういうもんだって知った。おなじ人間というくくりだけどさ、アルファは特別なんだ。それは、わかるだろ」  祐樹の目を見たまま、美月はうなずく。 「その下がベータ。これはたくさんいる、一般的なタイプだ。そして、その下に僕たちオメガがいる。オメガは劣等種って、知っているよな」  子どもに言い聞かせるように、祐樹はゆっくりと説明した。 「オメガはすくないから希少価値があって、便利だから使われるために大切にされる。そう考えたら、愛玩目的の犬や猫よりずっと価値が低いかもしれない。人間だから、言葉が通じる分、いろいろとしなくちゃいけないからさ」 (祐樹は、どんな場所で生きてきたんだろう)  それが聞きたくなった美月は、館に来た理由なんて関係ないと言い放った自分を思い出して、開きかけた口を閉じた。いまは祐樹の過去を聞くタイミングではなさそうだ。 「アルファは使い勝手のいいベータを雇う。ベータはアルファに雇われて仕事をする。ベータだけのコミュニティはたくさんあるけど、その上に君臨しているのはアルファだ。ベータが頂点にいるコミュニティはない。街の有力者は必ずアルファだし、政治を動かしているのもアルファだ」 「それは、わかっている」  美月は慎重に首を動かした。こんな会話をもし誰か――教官にでも聞かれたらどうなるか。護衛のベータが教官に密告をしたらとヒヤヒヤする。ここでは「天使のオメガは特別な存在で、アルファに愛され大切にされるために生まれてきたもの」と教育されているから。  祐樹がしゃべっていることは、その教育をくつがえすものだ。 (和真はそんなことをしないだろうけど)  心配をする美月をよそに、祐樹は平気な顔で話を続ける。 「それじゃあ、この館に入れなかったオメガがどんな扱いをされているかは知っているか?」 「どんなって……ベータのなかで子どもを宿せる男として、暮らすだけじゃないのかな」  美月の両親はベータだった。ひとりっ子の美月はオメガとして生まれ、しかしベータの子どもたちとおなじ空間で、おなじ扱いで育てられた。周囲の人々もオメガだからと差別をしなかった。ただ、おおきくなれば子どもを産める体なのだと言われていただけだった。 「そういうオメガもいるだろうけど、それは特殊というか、しあわせな場合だな」 「しあわせな、場合?」  反復して確かめる。 「そうだ。オメガは子どもが産める。しかもオス側になった相手の遺伝子が強く出る率が高い。優秀な遺伝子を持つ子どもがほしいときに、便利な相手なんだ。それだけじゃない。ほかの男は濡らすためにオイルを使わなきゃならないけど、僕たちオメガは自分で濡れるだろう?」  どこがと問うまでもない。 「うん、そうだね」  いつも濡れるわけではないけれどと心の中でつけ加え、だからどうなのだと美月は先をうながした。 「その上、望まなければ妊娠しない。まあそれは、意識としてできる場合と、無意識にしてしまう場合とがあるみたいで、そこのところは僕もまだよくわからないんだけど」  こめかみを掻いて自分の無知を恥じながら、祐樹は続ける。 「でも、そういう人間だと便利な仕事っていうのがあるんだよ」 「それは?」 「ここまで言って、わからないか?」  首を振った美月に、そうなんだと祐樹の目がまるくなる。 「ああ、それじゃあ……そうだなぁ。そういうものを知らないままのほうが、いいかもしれないな」 「ここまで言っておいて、その先は教えてくれないのか」 「うん、なんというか、きわどい話題だからさ」 「わかっていて、しているのかと思ったよ」 「言いながら、ヤバイなって気がついた」  ハハッと眉を下げた祐樹に、美月もおなじ顔をした。 「美月の護衛は信用できるのか?」 「信用していないと、おなじ部屋にはいられないよ。――まあ、護衛のすべてを信用できるかって質問なら、答えはノーになるけれど」 「それは……まあ、うん。そうか……美月は、そういう経験があるんだな」  言葉を濁した祐樹が、眉をひそめて視線をさまよわせた。 (いいやつなんだな)  信頼度がグッと上がる。 「それが、僕がこんなふうになった原因でもあるんだ」  彼になら言ってもいいかと、美月はわざと軽い口調でさりげなく「襲われたことがある」と匂わせた。 「話したいのか?」 「わからない。だけど、祐樹になら聞いてもらってもいいかもしれないって思ったよ」 「そっか。それは、うれしい評価だな」 「そう?」 「信頼してくれたってことだろう」 「いいやつだなって感じたんだ」 「面と向かって言われると照れくさいけど、まあ、僕はいいやつだからな」 「すこし前に、どうでもいいやつに聞こえるとかなんとか、言っていた気がするけれど?」 「あのときは、美月を皮肉屋だと思っていたから。――いまは、そうじゃないってわかったからさ」 「そうか」 「そう。美月も、いいやつだ」 「はじめて言われたな」 「だろうな」 「なんだい、それは」 「そのまんまだよ」  ニヤニヤした祐樹に肩を小突かれて、美月はくすぐったくなった。 「ふふ」 「まあ、ええと……なんていうか、なんだっけ。話がずれたな」 「うん、ずれたね」 「とにかく、そういうことだから」 「強引な終わり方だな」 「お互いの話の続きは折を見て、いい機会にするとしよう。今夜はそろそろ帰って寝るよ。睡眠不足は怒られる」 「天使は寝不足の顔なんて、してはならないからね」 「そういうこと。――帰るぞ、秋定」  祐樹が声を響かせると、キッチンから祐樹の護衛と和真が出てきた。 「秋定っていうのか」 「そう。なかなか強そうなベータだろう?」  誇らしげに、祐樹は秋定の肩を叩く。長身の和真よりもさらに背が高い秋定は、しなやかな肢体をしていた。服の上からでは細身にすら見える体つきだが、この館で護衛として働けるくらいなのだから力量は相当なもののはず。糸のように細い目をさらに細めて、開いた口からこぼれた声はやわらかかった。 「もう話はすんだのですか」 「終わってはいないけど、時間が時間だからさ。また今度にするって決めたんだ」 「それが懸命です」  どこか甘えた空気をかもす祐樹に、ずいぶんと信頼しているようだと美月はほほえましくなった。秋定の立ち位置も、さりげなく祐樹を守る姿勢になっている。 「いいだろう? 護衛戦で手に入れたんだ。どうしても、秋定が欲しくてさ」 「へえ」 「美月の護衛も、そうなんじゃないのか。その、前の護衛に問題があったんなら、いまのは自分で選んだんだろう?」 「いや、僕は」  和真に目を向けると、発言を命じられたと感じたのか、前に出た和真が答える。 「俺は彼の護衛になるために、ここに雇われたんです」 「また問題が起こらないように、より厳しいテストで選んだ護衛がつけられたってわけか」  なるほどと納得した祐樹は、和真の頭の先から足の先まで確認して、うんうんと首を動かした。 「身長は僕の秋定のほうがすこし高いけど、体つきはすごく強そうだな。護衛戦があっても負けなさそうだから、安心だな」 「和真を欲しがる誰かがいるかもしれないって、言いたいのかい?」 「優秀な護衛を持つことをステータスと考える連中もいるってことだよ。次の護衛戦では、賭けを受けないほうがいい」 「負けなさそうだと言ったのに?」 「自信があっても、勝負は時の運っていうからな。どんなに信頼していても、僕は秋定を賭けたりなんてしない」  じゃあなと手を振った祐樹が、秋定を連れて去っていく。見送った美月は和真を見上げた。 「なんだか、うれしそうだね」 「そうですか?」 「うん、そう。――あの護衛と、どんな話をしていたの?」 「べつに……これといったものはありませんよ」 「自由に話をするなんて、めったにないだろう」 「そう見えていましたか」 「護衛は休みがないからね」 「護衛は護衛で、交流はしていますよ。美月がどんな交流を想像しているのかは、わかりませんが。あなた方が会話をしている間に、こちらも会話をしたりしています」 「そうなのか」 「ええ」  護衛の行動を気にしてみたことがなかった美月は、彼等は常に対象のオメガに注意を向けているものだと決めつけていた。 「それでうっかり仕事に支障をきたしたり、なんてことにはならないのか」 「そのあたりは、お互いにプロを自負していますから」 「それだと、くつろいでいることにはならないだろう」 「護衛は護衛の時間があります」  言われて気づいた。 「鍛錬の時間か」  午前中、オメガたちが勉強をしている間に、護衛たちは鍛錬をするよう義務づけられていた。 「まあ、そういうことです。それよりも、あの方はどうでしたか」  鍛錬中はどういうことをするのかと、質問しかけた美月は逆に質問されて、言葉に詰まった。 「どうかなさいましたか?」 「いや……うん、そうだな……悪くない、かな」 「それはよかった。では、近々、彼の部屋に遊びに?」 「そうなると思う」 「たのしみですね」 「そうなのか?」 「そんな顔をなさっています」  自分の頬に手を当てて、そうなのかと美月は自問した。包むようなまなざしを向けられて、心がソワソワする。 「まあ、それはいい。そろそろ風呂に入って寝るとしよう」 「では、湯船の準備をしてまいります」 「ああ」  和真の背中から机に視線を動かした美月は、引き出しを開けて奥にあるちいさな袋を取り出した。机の上にコロリと落ちたのは、繋がっているボルトとナット。それを指先でつついたり転がしたりしながら、談話室からいままでの会話を反芻する。 (今日はいろいろなことがあったな)  思い出したり、考えにふけったり、知らないことを教えられたり。 (まるで、ここに連れてこられる前みたいだ)  いつもどおりの日々の中に、新しいものやなつかしいものがふいに訪れはじめて、なにか知らないものがやってくる予感を抱えたころに、館の人間がたずねてきた。  そのときの感覚に、いまはとても似ている。 (なにか……あるのだろうか)  気のせいかもしれない。けれど祐樹の部屋に行けば、違った関係がはじまるのは確定だなと、美月はボルトとナットをつまみあげた。 「ひとつずつ話して、知って、そこからだ」  これからの時間は、いままでよりも退屈しないでいられそうだと、美月はつがいのボルトとナットを握りしめ、胸に当てると目を閉じた。

ともだちにシェアしよう!