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第13話
「やあ。まさかそちらから声をかけてくるとは、思わなかったなぁ」
ニコニコと福々しい頬をもちあげて、アルファの川上は用意してきた洋菓子をテーブルに並べさせた。三段に重ねられたケーキの皿や、見た目が宝石のようなチョコレートやキャンディー、花を模したフルーツたちに、美月は目を奪われる。
川上に呼ばれ慣れているオメガたちは、それらにおどろくことなくテーブルの前におさまって、ナイフとフォークが用意されるのを待った。
「さあ、美月さん。君もどうぞ、席についてくれたまえ」
丁重に勧められて、美月は川上をうかがいながら席についた。
(財前さんとは違う)
こちらを立てる言動はおなじだが、そこに含まれているものはまったく別のものだった。川上は心底からオメガを丁重に扱っている。財前の奥から発せられる冷たいものは、かけらもなかった。こんなアルファもいるのかと、美月は川上を物珍しくながめた。視線を受けた川上は、照れくさいのかしきりに首元をピシャピシャと叩いている。
「真澄くんに声をかけられて、友達たちとのんびり過ごしたいから呼んでほしいと頼まれたときは、まさか美月くんまでいるとは思わなかったよ。――その、いいのかな? 財前さんは今日も来ているみたいだけれど」
眉を下げて遠慮がちに問う川上に、美月はほほえみかけた。
「ええ。べつに僕は、財前さんの専用というわけではありませんから。ちょっとした事件があって、一時、僕の護衛はいなくなってしまったんです。護衛がいないオメガは部屋に呼べないと、川上さんも知っていますよね」
「ああ、知っているよ。誰もが君たちを丁寧に扱うとは限らないからね。なかには、自分たちがお金を出して養っているのだからと、非道なことをするアルファもいる。残念なことだけれど」
心底かなしそうに、川上は首を左右に揺らした。
「そこで、財前さんはほかのオメガを呼んで、そのなかに僕を入れたんです。そうすれば、ほかのオメガの護衛がいますから、非道行為の抑止力になる」
「教官たちが止める理由がなくなるわけだね」
「そうです。それで、いつのまにかそれが習慣になってしまって、護衛ができてからも財前さんはそれを続けた」
「そして気がつくと、彼の専属みたいな扱いになっていたというわけか」
「ええ。ここにいるオメガは、どのアルファのものでもないのに。――自分のものにするのなら、引き取らなければならない。その大原則を忘れてしまうくらい、僕は財前さんのものだと思い込まれていたんです」
「ふうむ」
首を叩いていた手を顎に当てて、目を上に向けた川上は頭の中で整理する。
「つまり、僕にとってその認識は困ることだったんですよ。だって、そうでしょう? 引き取り手が現れないまま、財前さんの専用みたいに扱われていたら、僕はいつまでもここから出られないんですから」
たしかに、たしかにとつぶやいて、川上はあわれみの顔を美月に向けた。
「その打開策として、私に声をかけてくれたのかな」
「まあ、その……ええ。それも、あります」
歯切れ悪く視線をそらして、美月はお茶をたのしんでいるオメガたちの頭に視線を滑らせた。
(まだ、あの話題を口にする時間ではないかな)
あせるなと自分に言い聞かせ、美月はカップに指をかけた。川上のことをよく知らないうちに、いきなり頼みを告げるのはリスクが大きい。なにより向こうもこちらを知らないのだから。
美月はオメガたちの話に目じりをさげて、うんうんと相づちを打つ川上を観察した。
ずっと彼をながめていても、財前に感じる冷たさはかけらもない。福々とした笑みは地顔なのかと思うほど、くずれなかった。護衛たちも心なしか、くつろいでいるように見える。警戒をしなくともいい相手と認識しているからか。
(信用ができる人みたいだね)
そう結論づけた美月は、さてどう切り出そうかとタイミングを探った。たわいないオメガたちの会話はとぎれることがなく、川上が聞き上手だからか次々に話題が展開して止まらない。
そんな彼等の様子に、美月の口の端は我知らず柔和に持ち上がっていた。
川上はオメガたちになにかを要求することなく、ただもてなしている。こんなアルファもいるのかと、美月はいつの間にか目的を忘れてなごやかな雰囲気に身を浸した。
オメガはアルファをよろこばせるために存在する。すばらしいアルファに引き取られることこそ、オメガの最上のしあわせだと教育されていた。それはつまりアルファに従い、気に入られるよう心を砕いて行動をすることに繋がる。けれど川上はそれを当然とはしていない。財前のように、表面だけはオメガたちを丁重に扱い、望む行為を命じているのとは違う。
(この人に呼ばれたオメガたちは、ほかのアルファを居心地悪く感じるかもね)
ふと浮かんだ考えに、美月はゾッとした。もしもそうなら、誰もが川上を慕って彼に引き取られたいと望むのではないか。
(それが狙いだとしたら)
見る目を変えると、川上の姿は恐ろしく映った。
(いや、しかし……どうだろう)
計画に対する迷いが生じて、美月は腕を組んだ。言葉でたわむれているオメガたちと川上は、心底たのしそうにくつろいでいる。川上はいつも、こんなふうにしてオメガたちと過ごしているのか。――誰もなにも言わないから、そうなのだろう。しかしそれで、川上はなにかを得ているのか。
(疑り深くなっているな)
己の思考に自分でおどろき、美月は苦笑した。いままではそんな疑問を浮かべもしなかった。ただそこにアルファがいて、こちらはオメガで。その立場だけがあった。アルファがすることは、そのままそれとして受け止める。その裏になにがあるのか思考をめぐらせるなど、したことがない。
(祐樹の影響かな)
彼が謎めいたことばかり言うから、なにかを考えるクセができてきたのかもしれない。それとも、考えることを忘れていただけか。
どちらにしても祐樹の影響だと、美月はここにいない彼の姿を虚空に浮かべる。
(もしも祐樹が計画を知ったら、どんな反応をするだろう)
止められるだろうと予測して、相談をしなかった。しかしいまは、おもしろがって賛成してくれるかもしれないなと、真逆の考えが美月の中に生まれている。
(不思議だな)
おなじひとつのことなのに、まったく違った意見が自分の中にある。そんな揺らぎを抱きしめて、美月は口を開いた。
「川上さんは、誰か引き取るオメガを決めていらっしゃるんですか」
「ん?」
「その……彼等から聞いたのですが、川上さんはいつも多くのオメガを誘って、こんなふうにお茶をたのしんで帰るだけで、なにもしようとはしないし、させないと」
「ああ、そうか。それが美月くんには不思議なんだねぇ。まあ、そうだねぇ。不思議に思って当然だよ。ほかのアルファのだいたいは、自分の遺伝子を残したいことが第一。その次に見目のいいオメガをパーティーなんかに連れていって、自分に箔をつけたいっていうのが第二。あとは……自分の様々な欲求を満たしたい、というのが第三の理由だからね。私のように、ただお菓子をふるまって話を聞くだけのアルファは、あやしく見えてもしかたがないな」
ハハハと笑いつつ頬をつるりと撫でた川上に、いいえと美月はあわてた。
「そんな、あやしいと言っているわけではないんです。ただ、不思議で」
わかっていると言いたげに、川上は何度も首を縦に動かす。
「べつに不快になったりはしていないよ。そうだなぁ……こういう言い方は失礼かもしれないけれど、かわいい子たちがしあわせそうに、たのしそうにしている姿がうれしいんだよ。公園で年寄が遊んでいる子どもをながめて、なにをするでもなくニコニコしていたりするだろう? 知らないかなぁ。まあしかし、そんな心理だと思ってもらえれば、いいかなぁ」
「それじゃあ、川上さんは僕たちみんなの、おじいちゃんなんですか?」
果物をほおばりながら聞くオメガに、そうだねぇと川上は頬の肉でやさしい瞳を細くした。
「こんなにかわいい孫がたくさんいたら、しあわせだろうねぇ」
「川上さんは、オメガに子どもをつくらせようとは思わないの?」
「そんな元気はもうないよ」
「でも、大島さんは髪の毛まっしろだけど、とっても元気なんでしょう? 澄昭が言ってたよ」
「彼はねぇ、まあ……髪の毛の色だけで年寄かどうかは判断できないし、体力も人それぞれだからね」
「ふうん」
「私はみんなが、おいしそうにお菓子を食べてくれるのが、なによりもうれしいんだ。おいしいものは、誰かをしあわせにできる。それを目の前で見ていたいんだよ」
「どうして?」
「私はね、お菓子屋さんの社長さんだからだよ。ここでふるまっているお菓子も、お店であたらしく作ったものだったりするんだ」
「へぇ! だからいつも、いろんなお菓子があるんですね」
「そうだよ。たくさんの人が、ああでもない、こうでもないって考えてがんばって研究して、そしてあたらしくできたものを、みんなに食べてもらっているんだ。――ああ。ちゃんと、商品として売り出すと決めたものを持ってきているから、試食をしてもらっているわけではないよ」
オメガたちが目をキラキラさせて、テーブルの上に並べられたお菓子を見回す。
「もちろん、季節のものもあるし、ぜんぶが新商品というわけではないけどね」
「じゃあ、川上さんのおうちは、いつも甘い匂いがしているんですか?」
「だから川上さんは、太っているんですねぇ」
「ん? ははは。家で作っているわけじゃないよ。研究開発をするための施設があるんだ。そこで作って、あれこれと意見を出して作ってみて、味見をして。そして、おいしくできるかどうかを確かめるんだ。だけど、おいしいだけじゃいけなくてねぇ。おいしくても、見た目がよくないと商品化はしないし、材料が高すぎてもよろしくない。まあ、そういうコンセプトで作ったものなら別だけれどね」
「作ってみて、それで、やっぱりだめだってなったものって、どうなるんですか?」
「試食をして、そこで終わり。もう作らないよ」
「おいしくても?」
「おいしくても」
えーっと不満の声が上がる。
「もったいない!」
「おいしいのにね」
「食べてみたいねぇ」
「僕は、作っているところを見てみたいですっ!」
「どんなふうに作っているのか、知りたいよねぇ」
これは外に連れだしてほしいと言い出す絶好の機会だと、美月は身を乗り出した。
「僕も、見てみたいです。お菓子を研究する人や場所があるなんて、知らなかったので。見学ができればいいんですけど」
流し目でオメガたちに合図をすると、あっと気づいた彼等が口々に川上に迫る。
「僕も、見学してみたいです!」
「社会見学みたいでたのしそう」
「川上さんのケーキ、どんなふうにつくっているのか見たいなぁ」
「僕たちを、そこに連れていってもらえませんか?」
「僕は試食をしてみたいなぁ」
「えっ、ああ……ええと、そうだねぇ……ううーん。私も、みんなが来てくれるとたのしいし、新しい意見を聞けそうだから、試食をしてもらうのもやぶさかではないんだけどねぇ」
「川上さん。もし可能なら、僕もぜひ連れ出してもらえませんか? なにかが作られていく過程を見るなんて――しかもそれが、こんなにかわいいお菓子だなんて、想像するだけでワクワクします」
胸に手を当てて極上の笑みを浮かべた美月に、川上はグゥッと喉を鳴らして、好奇心いっぱいのオメガたちの上気した顔を見まわした。期待に満ちた瞳に困ったなぁとつぶやいて、こめかみを掻く。
「うん、まあ、そうだねぇ。できるかどうかはわからないけど、君たちだけ特別に招待できるかどうか、教官に相談してみよう」
やったぁと浮かれたオメガたちに、川上が「ただし!」と声を張り上げる。
「前例のないことだからね。ダメで元々という気分でいてくれるかな。それと、決まるまでは誰にも言わないように。決まってからも、誰にも言っちゃいけないってことに、なるかもしれないからね」
「僕たちだけの秘密ってことですね」
期待に体をふくらませるオメガに、そうだよと川上はやさしく声をかけた。
「だから、ぜったいに」
人差し指を口許に寄せた川上に合わせて、オメガたちが「しー」っとささやく。人の心をつかむのがうまいんだなと、美月は彼等のやりとりにほほえんだ。
「ずいぶんと変わった提案をなさいましたね」
部屋に戻ると、お茶も用意されずに言われて美月はヒヤリとした。
(計画していたことを、和真に感づかれていた?)
表情からはどちらとも判ぜられない。
「僕が言い出したわけじゃないさ」
もの言いたげな視線を残して、和真はキッチンへ姿を消した。緊張に心臓を硬くしながら、美月はソファに腰かけてお茶の用意ができるのを待つ。
しばらくして、甘い花の香りがするお茶が運ばれてきた。あたたかなそれに口をつけて、ほうっと体の力を抜いた。
ついさっきまで、川上にふるまわれたお茶をたのしんではいたが、部屋に戻って和真の淹れたお茶を飲むのはまた別だ。彼はいつも的確に、美月の気持ちに寄り添ったお茶を淹れてくれる。護衛の交換がおこなわれたら、この時間は失われる。
(そして誰かが、その恩恵にあずかるというわけか)
ひとりじめをしたい、というわけではない。ただ、手放したくなかった。和真はほかのオメガに仕えても、おなじようにお茶を淹れて差し出すのだろうか。そして、求められれば横たわり、好きに肌身をもてあそばれるのか。
チリリと胸に火傷に似た痛みが走って、美月は顔をゆがめた。
(なんだ、これは)
胸に手を当てて感情を追いかけてみるが、つかまえられない。
「外に興味がおありですか」
「え」
「祐樹と話をしてから、ずいぶんと外の世界に興味をお持ちと見受けられます」
「川上さんのところを見てみたいと言い出したのは、僕じゃない」
「そのことだけを言っているのではありませんよ」
「どうでもいいじゃないか」
「そうでしょうか」
「そうだよ。よけいな口出しは護衛の仕事じゃない。僕が誰とどんな会話をして、どんなものに興味を持つかなんて、和真には関係ないじゃないか」
「いいえ」
足元に膝をついた和真の、真摯な瞳にとらえられる。
「守るためには、相手をよく知ることが大切なんです。でなければ、いざというときに動けませんから。――美月がなにを考え、なにに興味を持ち、どんなことをしたいと願っているのか。それを知ることは、守ることでもあるんです」
「そ……れは」
「ですから、教えてください」
「なにを」
「外に、興味がおありですか」
ごまかしはゆるさないと、和真の瞳が言っている。目をそらそうにも、視線をしっかりととらえられていて動かせない。
「――美月」
「あるよ」
うながされ、美月は観念した。
「でも、べつに悪いことじゃないだろう? ずっとこの館で生活をするわけじゃないんだから。今後はどうなるのかと気にする過程で、外の世界に興味を持つのは自然だよ。僕だけじゃない。ほかのオメガたちだって、外には興味があるはずだ。いずれアルファに連れられていく場所は、どんなところだろうって興味を持つのは当然だよ」
(そうだ。僕が外に興味を持っていたって、なんら不思議はない。誰だっていつか外には出るんだから。僕だって、アルファに引き取られて館を出るんだ)
自分の言葉にはげまされて、美月は胸をそらした。クスッと鼻を鳴らした和真にムッとする。
「どうして、そこで笑うんだ」
「いえ」
語尾を濁した和真から顔をそむけてお茶を飲む。馥郁とした花の香りが鼻孔や肺に広がって、美月は目を閉じ余韻をたのしんだ。
「和真の淹れるお茶が、なによりもおいしいよ」
「そうですか」
「うん」
(お茶……か)
そういえば昔――この館に連れてこられる前に、おいしいお茶を飲める場所があったなと、美月はなつかしくカップをながめた。それがどこで、どういうものだったのかは覚えていないが、子どもの美月を大人のようにもてなしてくれたことだけは思い出せた。
(あそこに、また行ってみたいな)
雰囲気のほかはなにも覚えていない場所に、たどりつけるわけがない。そうとわかっていながらも、美月はぼんやりとした希望を抱えた。
「許可されるといいですね」
「ん?」
「外出です」
「ああ……うん」
「なにか、気になることでも?」
「――和真も、ともに行くことになるだろうね」
「護衛ですから、外出許可が出れば行動をともにします」
「うん」
「俺がいると、窮屈そうだとでもお考えですか」
「そうじゃない。ただ……和真がいたら、試食のケーキにぴったりのお茶を出してもらえると思ったんだよ」
「それは」
「和真のお茶は、とてもおいしいから」
「ありがとうございます」
いつもと口調は変わらないのに、和真が心底うれしがっているとわかる。どうしてそんなことで、これほどよろこんでいるのかと首をかしげつつ、彼のよろこびが伝染したのか、美月の心はふっくらした。
「護衛の交代なんて、ぜったいに阻止しないとね。――和真以外が僕の護衛になるなんて、想像もしたくない」
「美月」
「僕は、和真がいい」
手を伸ばして、精悍な輪郭を指の腹でなぞる。それだけでゾクゾクした。
(財前さんがきているのに、呼ばれなかったから。だから、体が不満なんだな)
和真のまぶたを撫でて目を閉じさせると、顔を近づけキスをした。薄い唇をついばみ、甘く噛んで引っ張る。白く健康な歯に舌を伸ばしてくすぐれば、和真の息が舌にそよいだ。それを取り込みたくて、彼の口内を舌でまさぐる。和真の舌を浮かせて撫でて、頬裏を押したり上あごをくすぐったりしているうちに、体がジワジワと熱を帯びた。がっしりとした肩を掴んで顔を押しつけ、舌の届く範囲すべてを蹂躙する。
「ふっ、ん……んぅ……うっ、ふ……はぁ、和真」
「はい」
「おまえも」
うながせば、和真の舌が動いた。口内をまさぐられながら服を脱ぎ、和真の腕を掴んで自分の腰に引き寄せる。激しい呼気をぶつけあい、あふれる唾液をからませて身を寄せても、和真の手は美月の腰から動かなかった。
(和真は、僕に手を出さない)
それがひどく屈辱的に感じた美月は、おどろいて彼を突き飛ばした。力いっぱい肩を押しても、和真はびくともしない。美月の背が跳ねて離れただけだった。見下ろした和真の顔に、劣情の興奮は見られない。瞳はわずかに潤んでいるが、普段とそれほど変わらない。
「っ!」
ギリリと歯を食いしばり、美月は立ち上がった。
「美月?」
「シャワーを浴びる。ついてくるな」
言い捨てて浴室に入った美月は、脱ぎかけの服を床に落としてシャワーを浴びた。ぬるま湯が不愉快で、温度を上げる。熱い湯は抱えている苛立ちを具現化したようで、美月はそれを浴びながら体を震わせた。
(なんで、僕はいまさら)
和真が手を出してこないのは、いまにはじまったことではない。これまで一度も、彼は美月に手を出さなかった。むろん、護衛からオメガに手を伸ばすのは禁じられている。オメガが許可したときにのみ、許される範囲でのじゃれあいならば問題はない。それなのに和真は美月が誘っても、己の手を動かそうとしない。
(命じていないから?)
さきほどのキスのように、おまえもしろと言えば和真はするのか。しかしそれではなにかが違う。どう違うのかはわからないが、美月の求めるものではない。そう思う。
(なにがしたいんだ、僕は)
自分自身の中で迷子になった美月は、シャワーを止めて外に出た。頭からバスタオルをかぶって、ガシガシと乱暴に髪を拭く。長い髪はなかなか乾かない。いつもは和真が美月の髪を丁寧にタオルでぬぐい、体も拭いて着替えもさせてくれる。彼が来るまで――護衛のいない期間は、教官が交代で美月の世話をしていた。こうして自分の世話をするのは、何年振りになるだろう。
(僕は……)
バスタオルを頭に乗せたまま、濡れた体で美月は部屋に戻った。目元にかかる布越しに和真を見る。和真はソファの横にたたずんでいた。
(なにを考えて、そこに立っているんだろう)
知りたい――。
「和真」
「はい」
口を開き、声を出そうとしてやめる。なにを言えばいいのか、どんな言葉ならいまにふさわしいのかがわからない。
どうしていいのかわからなくなった美月は、無言で両腕を差し出した。苦笑した和真が近づいてくる。
「乱暴に髪を拭いては、絡まりますよ」
「……」
うつむいて、いつものように世話をされる。いつものことなのに、なぜだか心が熱くなって涙がにじんだ。
(どうしたんだ、僕は)
わけがわからない。
なにか妙なものでも食べてしまったのだろうか。いまごろほかのオメガたちも、理由のない涙をこぼしているのか。
(一服盛られたとしか思えない。だって、泣く必要はどこにもないじゃないか)
和真に顔を見られたくなくて、美月はバスタオルの端を掴んで顔をぬぐった。
「じっとしていてください。俺が、しますから」
「ん」
バスタオルを離して腕をだらりと落とした。視界に和真の下半身が映っている。和真の熱がほしくなって、美月はしゃがんだ。
「美月?」
「食べたい」
股間に手を乗せてつぶやけば、苦笑が濡れた髪に触れた。
「シャワーを浴びたのは、する気がなくなったからではないんですか」
「気が変わった。――和真は、したくないのか」
「美月の好きなように」
「和真はどうかと聞いているんだ。したいのか、したくないのか」
「護衛に決定権をくれるんですか?」
「おまえは、僕と対等だと思っているから、僕を呼び捨てにするんだろう? だったら、聞いてもおかしくない」
「そうですね」
クックッと喉を震わせる和真に子ども扱いされた気がして、美月は鼻息荒く立ち上がった。
「どうしてそこで笑うんだ」
「いえ……ずいぶん、変わったなぁと」
「変わった? なにが」
「美月が、です」
「僕が?」
けげんに片目をすがめると、ええとうなずかれた。
「祐樹に声をかけられてから、ずいぶん感情を表すようになられたな……と」
「そうか?」
「そうです。いままでは、感情の起伏が薄かったというか、あまり物事に感心がなかったように見受けられましたが、いまはさまざまなことを知りたくてたまらない、という顔をしています」
美月は両手で自分の顔をたしかめた。
「きっと、ほかのオメガたちと交流をしているからでしょうね。自分以外の誰かを認識したから、知らないものを知って好奇心が刺激されたのでしょう」
「それじゃあ、まるで僕が今まで、どんなことにも興味を持っていなかったみたいじゃないか」
「なかったとまでは言いませんが、興味は薄かったでしょう? いつも単調な生活をしておられましたから」
「そう……かな」
(そうかもしれない)
ずっと代わり映えのしない日々を過ごしてきた。美月に声をかけてくるオメガはまれで、誘いをかけてくるアルファは財前だけだった。和真は余計なことはなにも言わずに、ただ美月の好むお茶を入れ、淡々と世話をしてくれていた。そのお茶がそのときの気分に合わせて変化するとは気づいていたが、そういうものだと気にもしなかった。
(いろいろなことに、気づきだしたと言ったらいいのかな)
自分の変化を不思議に思っていると、さあと和真の手のひらが目の前で開かれた。節くれだった男らしい指に、なにも考えずに自分の指を乗せる。細く長い自分の指と和真の褐色の指の違いに、美月の心はなぜだか揺れた。
手首を掴まれ立ち上がらされ、頬を包まれる。ドキリと跳ねた美月の心臓は、そのまま激しくはずみ続けた。
(なんだ、これ)
息が苦しい。薄く開いた唇が急速にさみしさを訴えて、和真のキスが欲しくなった。
「和真」
かすれた声で呼べば、和真の瞳がこれ以上ないほどやさしく細められた。鼓動はますますはやくなり、体中の血液が沸騰する。自分の変化についていけなくなった美月は、めまいを起こした。
「おっと」
膝が崩れた美月の腰を、和真の腕が支えて止めた。
「美月」
「のぼせたみたいだ。――いつもより、熱いシャワーを浴びたから」
「すぐになにか、冷たいものを持ってきます」
軽々と抱きかかえられ、ソファに寝かされる。離れていく体温を追いかけて手を伸ばすと、すぐに戻りますからとなだめられた。
(なにをしているんだ、僕は)
いつもの調子はどこにいったと考えて、いつもの調子とはなんなんだろうと悩んだ頭に、祐樹の自信に満ちた笑顔が広がった。
(祐樹なら、僕の変化の答えを知っているんだろうな)
相談すれば、すぐに答えに気づいて、けれど教えてはくれなさそうだと唇を皮肉にゆがめる。
(僕は、僕のことすらもわからないのか)
美月は自分を鼻先で笑った。
「望んだわけでもないのに、特別な存在のように扱われて、遠巻きにされて。いつの間にか、それになじんで」
けれど財前に違和感を抱えていて、祐樹ならそれを聞いてくれるのではと感じて。
(そういえばあのとき、外出日を作るとかなんとか言った気がする)
あのときは、まったく外に興味など持っていなかった。たわむれに、なんとなく、この館の中で禁止されていることを口にしてみただけだった。
その発言がいまに繋がっていると考えると、祐樹の存在がすべてのはじまりのような気がした。
(もしも外出許可がおりたら)
川上とともに外に出て、けれど見学範囲は許可の下りた場所のみに限られるはず。それでは外を知るとは言えないのではないか。
(やっぱり、祐樹に相談をすればよかったのかな)
「美月」
声をかけられ起こされて、ひんやりとしたグラスを渡される。
「ゆっくり飲んでください。いそがないで」
指示通りに、よく冷えたお茶を喉に通すと、口の中から喉までが冷たくなって、胃に落ちるまえに冷気は消えた。
ほんのりバラ色のお茶は酸味が強く、ぼやけた頭がスッキリとする。
ひと口ひと口、氷を舌の上で溶かすくらいの速度で飲み干した美月は、汗をかいた空のグラスを和真に渡した。
「おいしかった」
「まだすこし横になっていてください。おちついてから髪を乾かしてベッドに行きましょう」
「うん」
横たわると、冷たいタオルを額に乗せられた。視界が遮られたので目を閉じる。
「和真」
「はい」
「おまえは、外に出たいのか」
わずかの間を取ってから、和真の手の甲が美月の頬に添えられた。
「俺は、美月が出るのならともに。美月が館のなかにいるのなら、なかにいますよ」
無性にうれしさがこみあげてきて、涙となって目尻に浮かぶ。ジワリとあふれたそれは、和真に見られることもなく、冷えたタオルに吸い込まれた。
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