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第16話

 ついっと袖を引かれて、祐樹に顔を寄せられる。 「なんか、あったか?」 「なにかって?」  ううんと祐樹はむつかしい顔をして、さらに声を潜めた。 「朝から様子が変だろ。美月」 「そう、かな」 「そうだ」  じっと祐樹を見返した美月は、左右に目を走らせると教室に併設されている資料室に祐樹を誘った。  誰もいない資料室の、ドアからいちばん遠い角に立った美月は上目遣いに祐樹をうかがう。 「なにか、聞いている?」 「なにって、なにをだよ」 「昨日の話」 「昨日って……やっぱ、なんかあったのか」  うなずいた美月に、祐樹は腕組みをした。 「川上さんが、いきなり五人のオメガを引き取った。夕食前に、そう知らされたよ」 「五人」  自分を除いて外出したオメガのすべてだと、美月は顎に手を当てる。つまり彼等は無事だったのか。それとも館に戻れなくなり、それをごまかすために全員が川上に引き取られたことにしたのか。 「それが発表されて、みんなはどんな反応だった?」 「どうって、おどろいているやつが多かったな。あとは、うらやんだり、川上さんならありえると納得したり。――それよりな、僕は美月が夕食のときにいなかったのが気になった。もっと言えば、朝から美月の姿がなくて気にしていた」  下手なごまかしはしないでくれよと雰囲気で伝えられ、美月はわかっていると目顔で返す。 「ほかに、気にしている人はいる?」 「どうだろう。そこよりも数人まとめて引き取られたってことに、意識がいっている感じだな。それならいっしょに引き取られたいって、話し合っているやつもいる。あとは、午前中の授業で姿が見えなかったのは、そういうことかって声があった」 「だから、祐樹は僕をよけいに気にしたんだね」 「そうだ。だけど、美月が川上さんに引き取られるとは思えなかった。引き取られた五人といっしょに前日、美月も川上さんに呼ばれていたと知っていてもだ。なんとなくの、勘だけどな。それで、なんかあると思ったんだよ」  ふうっと息を吐き出して、美月は苦い笑みを見せた。 「すごいな、祐樹は」 「どうなんだ。なにか、あったのか」 「あったよ」 「なにが」  自分の感情や思惑は置き去りにして、事象だけを祐樹に伝える。淡々と語っていたのに、見知らぬ場所で監禁されたくだりになると、美月の声は恐怖に震えた。 「ふうん」  天井を仰いで、祐樹はそれらを咀嚼する。 「オークションとか、さっぱり意味がわからなかったよ」 「うん、まあ、それは……そう、だろうなぁ」 「祐樹は知っているんだろう」 「あー、まあ、くわしくはないけど、知らないとは言えないな」 「教えてくれないか」 「聞いてどうする」 「どうもしない。ただ、知りたいだけだ」 「うーん」 「祐樹」  しばらく視線をあちこちにさまよわせていた祐樹だが、弱った顔で頭を掻くと、ポツポツと説明をはじめた。 「オークションっていうのは、ひとつの商品を大勢の人で競り合うものなんだ。ええと、ものがひとつしかないから、高値をつけた人に売るってやり方だな」 「僕は、それをされるところだったんだな」 「そうだ。買い手はいろいろ。アルファだったり、アルファ相手に商売をしているベータだったり、ベータ相手の商売のベータだったり。人間がそれにかけられる場合は、労働力であることが多い」 「僕はなにもできないよ」 「できるさ」 「なにを」 「抱かれることが、できるだろう」  え、と美月は目も口もまるく開けた。 「抱かれることが仕事になるんだ」 「そ……う、なのか」 「そうだ。ただし、相手は選べない。金を払った客を店主が連れてきて、その相手をよろこばせるために抱かれる。そういう仕事があって、オメガのぜんぶとまでは言わないけど、そういうところに連れていかれるオメガは多い」  言葉では実感にならなくて、美月は言葉を吐き捨てた祐樹を見た。よほどいやなことらしいと、ぼんやりと認識する。 「美月も、望んでいない相手に襲われかけたことがあるだろう」 「も……ってことは、祐樹も?」  硬い顔で顎を引いた祐樹を、美月はそっと抱きしめた。 「だから、僕――俺は、ここに来たかったんだ。どうせ好きにされるんなら、いい暮らしができる相手に買われたいと思ったから。俺たちオメガは道具とおなじだ。それならペットになるほうが、ずっとましだ。ペットになるのでも、ベータよりアルファがいい。そのほうがいい暮らしができるし、しあわせになれる。そう考えて、俺はここに入った」 「そう……だったのか」 「ここにいるやつらは、だいたいそんな考えでいるもんだと思っていたから、実際の境遇を見ておどろいたよ。入りたくて入ったやつなんて、ほとんどいないんだもんな。それどころか、無理やり家族と引き離されて、アルファたちに気に入られるよう教育されて。外で生きていたら当たり前に覚えることも、ここでは知ることすらできない。教育というより洗脳だ」 「祐樹」 「だから、ここのやつらも案外しあわせじゃないのかもなって思った。そんで、知らなくてもいいものは知らない方がいいって思って、言いかけたものをごまかして――そのせいで、美月に変な好奇心を植えつけちまった」  ごめんとつぶやかれて、美月は首を振る。 「いい経験とは言えないけれど、なにかに気づけた気はするから。それに、祐樹のせいじゃない。祐樹が僕に声をかけてくれたから、僕は僕を思い出せた」 「なんだよ、それ」 「僕自身もまだ、よくわかっていないんだけど……その、昼食後に僕の部屋に来てくれないか。ここだと、ちょっと」  チラリと教室に目を向ける。誰かが入ってくる気配はないが、遠慮なくなんでも話せる空間というわけでもない。  わかったと祐樹がうなずき、ふたりは離れた。 「それと、相談したいこともあるから」  そうして約束したものの、昼食後に美月は財前に呼び出されてしまった。  断ろうと思ったが、教官がそれを許可しなかった。 「明日にしてはもらえないのですか」 「昨日はわがままを聞いたのだから、今日はこちらに従ってもらいますよ」 「……昨日の、ほかの子たちは」 「全員、無事です。ですがかなり怯えていましたのでね。自分の責任だと川上さまは全員をお引き取りになられました」 「僕は、どうして」 「あなたもまとめて引き取りたいと申し出がありましたが、あなたは特別ですからね。ほかの天使とおなじ扱いはできません。その代り、いろいろと手を尽くしていただきました。そのおかげで無事に戻れたのですから、感謝を忘れないように」 「それは、もちろん」 「それと、このことは誰にも内密に。そのために、あなたの護衛が救出に名乗りを上げたのですから」 「和真が」  ふわっと美月の体があたたまる。教官は「わかりましたね」と言って、美月を財前のもとへと連れていった。  室内に入ると財前は隠しきれない不機嫌をにじませながら、美月を歓迎した。ほかのオメガの姿はない。財前とふたりきり――正確に言えば、彼の付き人と和真がいたが――になるのは、これがはじめてだった。 「やあ、美月」  両手を広げた財前に、美月は軽く会釈した。財前の付き人がイスを引き、美月を招く。座った美月の前に紅茶が置かれ、ナッツが添えられた。 「まさか、ほかのアルファの誘いに乗るとは思わなかったな」  嫌味を含んだ声をかけられる。どうしてそんな口調をされるのか、美月はわからなかった。 「しかし彼は、美月を気に入ったわけではないようだ。君以外の天使を引き取ったのだからね」  ひとり言としか思えぬ様子に、美月はなにも返さなかった。 「だが、ほかに美月を誘う誰かが出ないとも限らない。完全に油断していたよ。すっかり自分のものにしたつもりでいてしまった」  やれやれと首を振った財前が、テーブルに肘をついて指を組み、その腕に顎を乗せた。まっすぐに向けられる笑顔が不気味に感じて、美月の産毛がゾワリと逆立つ。 「近々、君を引き取ろうと思う。引き取れる天使はひとりだけ、というルールはないということを、昨日は思い出させてもらったよ。誰でも、美月が気に入っている天使をふたり……いや、もうすこし多くてもいい。いっしょに引き取ってもかまわない。どうだろう、考えてくれるかな」  財前の提案は、冷気となって美月を包んだ。 (僕を、引き取る……?)  しかも仲のいいオメガも共にと言っている。それは破格の条件で、拒絶する理由はどこにもない。けれど――。 (いやだ)  美月の本能は全力で財前を拒んだ。かろうじて笑みを崩さず、美月は紅茶に口をつける。なんの味もしなかった。温度すらも感じられず、美月は紅茶に映る自分を見つめる。 「突然のことで、おどろいているのだろう。いままで、こんなことは言わなかったからな。それとも、共に引き取られる天使を誰にしようかと考えているのか? なに、心配はいらない。選ばれなかった天使も、いい引き取り手が見つかるだろうさ。さあ、美月。返事は? もちろんイエスだろう」  オメガの合意がなければ引き取ることは不可能。それが、この館の規則だ。建前上は、合意がなければ子がなせないからだが、本音は自分の望むオメガをほかのアルファに取られまいと、オメガ同士が牽制のために決めたものだった。それがいま、美月にはとてもありがたい。 (断りたい。――でも)  ここで即答はできない。 「突然のことで……すこし、混乱していて」  そうだろうと言いたげに、理解あるものの余裕をかもす財前の態度に嫌気が増した。 (なにも、わかっていない)  彼の目の奥には、冷たいものが横たわっている。それは美月を「道具」としか見ていないからだと、祐樹が教えてくれた。 (もっと、きちんと、僕を僕として認識してくれる人といたい)  無意識に視線が和真に移動する。気づいた財前が席を立った。 「ゆっくりと考える時間がほしいらしいな。いいだろう。今日はこのくらいにして、部屋に戻ってじっくり考えてみるといい。すぐに返事をくれなんて、無粋なことは言わないよ。悩む時間はおおいに与えよう。だが、忘れないでくれ。誰にも声をかけられなかった君を、ずっと呼び続けていたものは誰だったのかを……な」  底冷えのする目で射抜かれて、美月は逃げ出したくなった。硬直した美月の肩に、いつの間にか傍に来ていた和真が触れる。そのぬくもりが、美月の恐怖をなごませた。  いつもの、当たり障りのない笑みを浮かべて立った美月は、無言のまま財前に頭を下げて自室に戻った。すぐに祐樹を呼んでほしいと和真に命じる。 「相談したいことが増えたと、言ってきてくれないか」 「ええ、すぐに」  ひとりきりになった美月は机のなかから、ボルトとナットを取り出した。クルクルと回転させて、ボルトとナットを分離する。ナットをつまみ、穴をのぞいて壁を見て、その先にボルトを持ち上げた。 (財前さんは、僕のボルトじゃない)  それじゃあ誰がという問いとともに、和真の笑顔がひらめいた。おだやかな笑顔や静かなほほえみ、救出時のたのもしい顔――そして、夢中で美月を求めてくる、苦しげでうつくしい快感の表情。  ズクンと体の中でなにかが鼓動をはじめた。腹に手を置き、美月は「まさか」と青ざめる。予感がそこに埋まっていた。 (そんなはずは。だって、和真はベータだ。僕はアルファに引き取られるために館に……き……た、のかな)  根本的な部分に揺らぎが生じている。美月はフラフラとソファに向かい、くずおれた。クッションに沈んだ美月は、自分の中の常識に入るヒビの音を聞く。 (そもそも、僕はアルファに引き取られたくて、ここに入ったんじゃない)  自分の意思ではなく、ただ館に入れと言われて連れてこられた。そして、オメガにとってアルファに引き取られることが重要だと教育をされ、遊びのなかでアルファをよろこばせる術を学び、護衛のベータは道具であると教え込まれた。 (その認識は、正しいのか?)  自分のボルトはアルファでなければならないのか。  美月がぼうぜんと悩んでいると、祐樹と秋定を連れて和真が戻ってきた。 「財前さんに呼ばれたらしいけど、もういいのか」  ぼんやりとした顔を祐樹に向ける。祐樹は怪訝な顔をして、美月の隣に座った。 「なにか、あったのか」 「引き取りたいと言われた」 「え」  お茶を出すためにキッチンに向かう和真の横顔に、変化は見えない。聞こえているはずなのにと、美月は苛ついた。そしてすぐに、自分の感情の動きに疑問を持った。 「祐樹」 「なんだ」 「僕は、おかしいのかもしれない」  茫洋とした自分の声を聞きながら、美月は祐樹の腕をつかんだ。 「なにがあったのか、順番に言ってみろ。――順番じゃなくてもいい。とりあえず、なにがおかしいのか説明してくれ」 「自分でも、よくわからないんだ」 「なにが」 「僕は、アルファに引き取られるために、ここにいるのかな」 「どういうことだ」 「僕のボルトは、アルファなのかな」 「? ボルトって、なんだ」  美月は握りしめていたボルトとナットを祐樹に見せた。 「ボルトとナットは、オスとメスとも言うんだ。このふたつは、ぴったりとかみ合う相手じゃないと、役に立たない。すぐにゆるんで外れてしまう。――ナットは僕だ。ボルトは……アルファなんだろうか」 「美月」 「ねえ、祐樹。僕は」  言いかけた美月の目の前に、祐樹の手のひらが向けられる。言葉を止めた美月の耳に、食器が置かれる音が触れた。 「悪いけど、和真と秋定はちょっと外してくれないか」  祐樹の声に、ふたりが従う。彼等の姿が消えると、美月の頬は祐樹の手に包まれた。 「さあ、美月。ゆっくり話をしようか。こういうときは、あせらずにひとつずつ、確認しながら進んでいくのがいちばんだからな」  噛んで含めるように言われて、美月はコクンと幼子みたいに首を動かした。

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