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第19話

 目の前にはクッキーやチョコレート、果物などが並んでいる。  おいしそうに見えるのに、お愛想で手を伸ばしても味がしない。お茶も無味無臭で、ただ口内から喉へと流れる液体を感じるだけだ。  財前の笑顔が――瞳は冷ややかなままの――目の前にある。それをかわすために美月は微笑を顔に貼りつけ、わずかにうつむいて長い髪で表情の半分を隠していた。  ほかにオメガの姿はない。財前はまた、美月をひとりだけ呼んだのだった。 「美月と出会ってから、どのくらいかな」  低く響く財前の声は心地がいいと言っているオメガがいた。しかし美月には、獲物を狩ろうとする獣のうなりに聞こえる。  なつかしくあれこれと、美月に対する個人的な思い入れを語り続ける財前に、それとわかるよう相づちをまじえながら笑みを向けては顔を伏せ、話に聞き入っているふりで目を閉じる。美月にとっては、どれも代り映えのしない記憶だ。 (僕にとって財前さんに呼ばれる時間は、どれもこれもおなじだったということか)  心が浮き立ちもしなければ、沈むこともない。ただただ、はやく終われと思って過ごしていたのだと、改めて思い知らされる。 (やっぱり、無理だ)  早々に財前に抱かれて、彼の子を宿したということにしてしまおうかと考えたが、心が激しく拒絶をしている。 (はやく僕の外見を損なう方法を見つけないと)  そしてそれは、和真がとがめられない方法でなければならない。自ら己を傷つけることはできないし、危険な行動を取ろうとすれば護衛の和真も巻き込むことになる。 (なにか、方法を)  いつしか美月の耳から財前の声が遠ざかり、周囲のすべてが見えなくなった。完全に自分の内側に入って考え込んでいた美月の肩に、誰かが触れる。ハッとして顔を上げると、和真がいた。  ぼうっとする美月に、和真が立つよううながした。ふわふわと立ち上がった美月の耳に財前の声が届く。 「昨日の今日で、まだ心の整理ができていないみたいだな。無理もない。ずっとやきもきしていたんだろう。引き取る気配がまったくないから、どうなってしまうかと。それが唐突に引き取るとなったんだ。混乱してもしかたがない。――だが、こちらとしては、そちらの気持ちが整うまでは待つつもりでいたんだよ」 「どう、してですか」  ふうわりと美月は財前を見た。 「どうして……ですか」  繰り返した美月に、財前が愉快そうに唇をゆがめる。 「なにが、かな」 (なにが……そう、なにが、どうしてなんだろう)  自分で問いを発していながら、美月はなにを問えばいいのかわからなかった。 「もしかして、どうして自分なのかと言いたいのか。それは美月が、誰よりもすばらしい天使だからだよ。美月ほどうつくしいオメガはいない。立ち居振る舞いも優美で、安易に誰かに媚びたり、なついたりしない気高さもいい。なにもかもが極上のオメガ。それが美月、君だからだ」 「僕は、そんなにすばらしくはありませんよ」 「謙遜か。まさか君から、そんな発言をされるとは予想もしなかったな。ほかのオメガと自分は違うと、思ったことはないのか」  ゆるゆると美月が首を動かすと、肩にかかった髪が揺れた。 「心までうつくしいのか、君は」  財前の手が伸びて美月の頬に触れる。硬直した美月と財前の間に和真の腕が入った。 「なんだ」  鋭い視線が和真に向けられる。 「まだ、慣れてはおられないようですので」  川上と外に出て、さらわれた件はおおやけにされていない。和真は単に、財前に慣れていないと取れる言い方をした。財前はそれを、以前の護衛に襲われた過去の恐怖をぬぐえていないととらえる。 「まだ傷は癒えていないということか。なるほど、それほどひどい思いをしたんだな。――となると、護衛の君も大変だな。護衛の特権を味わえなくて、さぞ無念だろう」  声の端々に下卑た匂いがひそんでいる。美月はきびすを返してドアに向かった。和真が後に続く。 「ほかのアルファが見向きもしなかった君を、危険がないよう配慮して誘い続けた相手が誰かを考えれば、答えはひとつしかないと思うがな」  背中にかけられた声を、和真がドアで遮ってくれた。 「気になさらずに」 「気にしてないさ」  うつむいたまま、美月は問うた。 「和真は、あの人をどう思う」 「俺は……あまり、好きにはなれません」  身をかがめて声を潜めた和真に、美月はほっとした。 「うん。僕もだ」 「おなじ意見ですね」 「ああ、だけど――」 「気にしないことです。無理に合わせる必要はない。ここではオメガの意見も尊重されますから。美月がいやなら断ればいい。アルファはほかにもいますから」 「ほか……か」 (ほかのアルファに呼ばれたとして、その相手を和真の代わりに求められるだろうか)  美月は廊下を進んで、オメガたちが遊ぶ中庭に出た。木陰におちつき、ぼんやりとながめる。和真は中庭には出ずに、ほかの護衛たちとおなじように廊下の柱の傍に控えた。 (誰か、財前さん以外のアルファに呼ばれて、その相手を誘ってベッドを共にして、その相手の子どもをさずかったことにすれば)  それがいちばん、現実的に可能な方法だとは思う。――思うが、心が許さない。なんてやっかいなものを手に入れてしまったのかと、美月は愁いで視界を薄めた。 (僕の気持ちを納得させるには、見た目を損なうのがいちばんいい)  その後どうするかは、そうなれてから考えればいい。わずかな縁しかないが、川上に頼ればいいとも思っている。あのときの、騒ぎの前のやりとりで、川上は信用できると直感していた。 (祐樹の言うとおり、僕がそういうものを察するのに長けているのなら大丈夫だ)  なにせあの日のオメガのすべてを引き取った人なのだからと、美月は己を奮い立たせる。 (あとは、僕を損ねる方法だけ)  それだけが思いつけない。逆を言えば、それさえ思いつきさえすればどうとでもなる。 (なにか、なにか方法を)  うまくケガをするためには、どうすればいい。ただのケガではなく、修復不可能な傷を負うものでなければならない。護衛の助けが入らない場所で、それほどのケガを自然に負うにはどうすればいい。  なやむ美月の視界の中で、ひとりのオメガがなにかに足を取られて転んだ。あぶないと声が響いて、すぐに彼の護衛や遊んでいたオメガたちが集まる。護衛に抱き上げられた彼は「大丈夫」と笑顔を見せるが、護衛は彼を抱き上げてどこかへ――おそらくは救護室へ――運んでいった。 (ああいうふうに、自然に傷を負う方法は)  ただ転ぶだけでは、擦り傷程度しか身につかない。それでは意味がない。もっとこう、痕がずっと残るケガでなければ。 (転ぶという方法は、有効そうだ)  あとは、どこで転べば目的を達せられるか。  なにも思いつけないまま夕食の時間を知らせる鐘が鳴り、美月は食堂へ向かった。 「美月」  祐樹が小走りに駆け寄ってきて、美月の隣に並んだ。食事は護衛と別になる。美月たちが食堂に入ると、和真と秋定は隣の護衛用食堂へ姿を消した。 「今日も財前さんは、美月しか呼ばなかったんだってな」  うんと美月は仕草で答えた。 「どうなんだ。やっぱり無理か」  美月はまた、無言で首を動かした。 「そっか。まあでも……ううん、そうだなぁ。そうなると、どうするかだなぁ」  さりげなく腹部を確認されて、美月は細く息を吐いた。 「あんまり考えすぎるなって言ったって、考えちまうだろうし。なにか、いい解決法があればいいんだけど。ごめんな」 「どうして和真があやまるんだ?」 「そりゃあ友達が困っていたら、なんとかしたいって思うのが人情だし、助けられなかったらくやしいからだよ」 「とも、だち」 「なんだ。美月はそう思ってなかったのか」 「いや、ええと」  そういう存在を意識したことがない。けれどもし、祐樹との関係を他人に説明するとすれば、それになる。 「友達とか、なんだか、なつかしい言葉だったから」 「そっか? まあ、ここでは仲間だとかなんだとか言って、友達って言葉はあんま使わないよな。なんでだろうな」 「さあ」  心がふくふくと笑っている。祐樹に友達と言われたことが、とてもうれしい。と同時に、この館から出ると祐樹に会えなくなると気づいて、さみしくもなった。 「どうした、美月。なんか、むずかしい顔をして」 「いろいろと、むずかしいなと思って」 「例の件をどうするかってことか」 「それもあるけど」 「うん?」 「なんでもない」  会えなくなるのがさみしいと告げるのは面映ゆい。美月は手近なテーブルについた。隣に祐樹が座る。給仕係がやってきて、夕食をテーブルに並べた。スープにサラダ、メインの料理とバケットが並べられる。今日のメインは白身魚のムニエルだった。  いそがしく動き回る給仕を見ながら、祐樹の「いただきます」を聞いて、美月もそれにならった。フォークを手にして、サラダを口に運ぶ。葉野菜と豆のサラダは、オリーブオイルに塩コショウというシンプルな味つけだった。しかしそのなかに、ほのかな柑橘系の酸味がある。その味に、美月は和真の入れてくれたハーブティーを思い出した。 (似ている、けど……なんの味なんだろう)  和真に聞いてみようか。答えてくれるだろうかと考えて、愛おしそうにお茶について語った和真を思い出す。 (和真の大切な、守りたい人……か)  その人のところに行くために、和真は護衛を続けている。自分が館から出れば、和真の任は解かれる。 (そうすれば、和真はその人の護衛になれるかもしれない)  どんな相手だろう。美月はオメガたちをながめた。護衛は志願制だと聞いたから、きっとこの中にいるはずだ。護衛はオメガを選べない。教官が誰にどの護衛をつけるのかを決定する。そしてオメガがその護衛を気に入らなければ交換、あるいは護衛戦を経て、希望の護衛を手に入れる。 (そうだ、護衛戦だ) 「祐樹。あの、護衛戦のことなんだけど」 「ん?」 「あれは、どうなっているのかな」 「うーん。あるみたいだけど、順位ごとに振り分けっていうのは、ただのウワサだったみたいだな」 「そうか。よかった」 「和真以外じゃ、無理だもんな。美月は」 「そっちだって、秋定じゃなくなったら困るだろう」 「うん、困るな。おおいに困る。あんなに過ごしやすくて気安いやつは、そうそういないだろうから」  そっと顔を寄せて、祐樹がいたずらっぽく片目をつぶる。 「秋定となら、言葉遣いも気にしないでしゃべれるんだ。そのせいで、なかなか直せないんだけどな」  クスクス笑ってスープに口をつけ、魚用ナイフに目を止めた。 (これで切っても、たいしたケガにはならないな)  目につくもののすべてを、ケガをするために使えるか否かで見てしまう。 (思考が狭くなっているんだ)  だから妙案が浮かばない。そうは思っても、ちょっとした隙間に悩みが入り込み、ふくらんでしまう。気がつけば、どうすればケガができるのかと考えている。 「上の空だな」 「え」  無意識に食べ進んでいた美月は、スープを飲み終えムニエルにとりかかっていた。右手からナイフが抜けて床に落ちる。  カツンと硬質な音が響いて、祐樹が「あーあ」とたのしげにあきれながら、それを拾おうと手を伸ばした。 (そうか)  唐突にひらめいた美月は、ふらりと立ち上がった。 「美月?」 「ちょっと気分が悪いから、水をもらってくるよ」 「それなら給仕を呼べばいい」  右手を上げて、祐樹が給仕に合図を送る。美月はグラスを取って水をあおり、水差しを持って近づいてくる給仕にそれを差し出すふりをして落とした。 「あっ」  はかない音を立ててグラスが割れる。それを追って、美月は全身の力を抜いた。 「美月」  あわてて伸ばされた祐樹の腕に支えられる前に、美月は床を目指す。  キラキラと輝く破片が眼前に迫る。  反射的に目を閉じた美月の顔が熱くなった。  甲高い悲鳴が渦を巻く。ざわめきが美月を中心に広がっている。医者をと叫ぶ祐樹の声に、激しく鼓膜を叩かれた。 「美月、まさか……おまえ」  震える祐樹の声にまぶたを上げる。いまにも泣きそうな祐樹がそこにいた。ほほえんで手を伸ばし、彼の頬を撫でる。 (大丈夫なんて、言えないね)  うまくいったかと問うのもおかしい。顔中が熱くて痛くて、どうかこの傷がずっと残るものでありますようにと願いながら、美月はふたたび目を閉じて、バタバタとせわしない足音が近づいてくるのを聞きながら意識も閉じた。

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