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第20話

 嗅いだことのない匂いが鼻孔を満たしている。なんの音も聞こえない。いったい自分はどうなったのかと、美月は考える。 (あれから僕は、どんな処置をされたんだろう)  ケガをした実感はある。いまは痛みがまったくない。のろのろと手を伸ばして顔に触れると、布が巻かれていた。包帯だろうと見当をつけ、それならこの匂いは病院のものなのかと考える。まぶたを開く気にはなれず、美月は手をパタリと落とした。  最後に見たのは祐樹の顔だった。必死に案じてくれている、いまにも泣き出しそうな顔。それに、友達と言ってくれた彼の声が混ざって、申し訳なさとうれしさが同時にこみ上げる。じわりとまぶたが濡れて、包帯に滲み込んだ。  どのくらいそうしていたのか。  ドアの開く気配がして、数人の足音が近づいてくる。 「まだ、眠っているのかな」  その声には聞き覚えがあった。まぶたを上げると、やわらかな笑顔がそこにある。 「川上さん」  つぶやいた美月の視界は、左半分しかなかった。右目は白くおおわれている。  うんうんとうなずいた川上は、背後にいる医師にふたりにしてほしいと告げた。医師から痛いところはないかと質問されて、痛くもないし気分も悪くないと美月は答える。なにかあればすぐに呼ぶよう言い残し、医師は看護師とともに出ていった。  ふたりきりになると、川上はベッドわきのイスに腰かけた。 「さて。――ずいぶん、思いきったことをしたねぇ」  いたずらっぽく輝く目には、いたわりが満ちている。 (どうして)  川上がここにいる理由がわからない。けれど彼なら助けてくれると、美月は安堵した。 「思いきったこと、とは?」 「とぼけなくてもいい。あらましは祐樹くんから聞かせてもらったよ」  えっ、とおどろき身を起こした美月を、そのままでと川上は手のひらで制す。身を横たえた美月に、川上は困った顔をした。 「ずいぶんと、大胆なことをしたね」 「あの、僕は」 「見事にぐっさり、額にケガを負っていたよ。縫うくらいに深く、しっかりとね。まさか、そんな方法を取るとは思わなかったって、祐樹くんがうろたえていた」 「祐樹は」 「病院についてきたがっていたけど、それは無理だからね。いまごろ館で心配をしているだろう。あとで、連絡を入れておくよ」 「ありがとうございます」 「それと、君の顔のケガのことなんだけど」  美月は緊張に、ゴクリと喉を鳴らした。 「額にすこし痕が残る」 「それだけ……ですか」 「そう。それだけだ。髪の毛で隠せる程度だよ」 (それで館を追いだしてもらえるのかな) 「あまり、うれしくなさそうだね」 「えっ」 「安心していい。あらましは祐樹くんから聞いたと言っただろう? 医師には、おおげさに包帯を巻いて顔の半分は傷が残ると言うよう指示をしておいたよ。頭のケガは、思うより血が流れるものだからね。実際のケガよりも大変そうに見えるんだ」 「ええと、それは」 「妊娠、しているらしいね」  ヒュッと美月の喉が鳴る。大丈夫だよと川上は美月の胸を、子どもを寝かしつけるように叩いた。 「すべて祐樹くんから説明を受けた。どうして私がここにいるのか、気にならないかな」 「それは、はい。気になります」  今回のケガに川上は関係ない。それなのにどうして彼が見舞ってくれているのか。その疑問に、言われてから美月は気づいた。 「君が搬送されたあと、祐樹くんは事情を聞かれたんだ。そこで教官たちに、私にすぐさま連絡を取ってくれと言ったんだな。そして病院も、私に縁のある場所にしてほしいとたのんだ」 「どうして」 「あの事件のことを、祐樹くんは聞いた。それが原因でこうなったんだと教官に訴えたんだよ」  それなら教官たちは、祐樹の言うとおりにしただろう。 「そのことをほかの誰かに聞かれるわけにはいかないからね。祐樹くんは指導室に連れていかれて、そこで私の到着を待った。確認をしたいことがあるから、私と祐樹くん。彼の護衛と君の護衛のほかは席を外してくれと彼は言った」 「教官が、それに従ったのですか」 「私はアルファだからね。館の出資者のひとりだ。私がそうするように命じれば、教官たちは従わざるを得ない。そこで、君がなにに悩んでいるのかを聞いた。私をとても信頼し、頼ってくれるつもりでいることもね」 「すみません」 「どうしてあやまるのかな。私はとてもうれしかったよ。短い時間しか接していなかったのに、自分の人生を賭ける思案の中で私を思い浮かべるほど、好感を持ってもらえていたのかとね」 「川上さん」  左目に映る川上の顔には、計算も狡猾さもなかった。ただ純粋に、美月を案じていた。 「どうして、そこまでやさしくなれるんですか」  フフッと息を漏らして、川上が苦笑する。 「昔ね、いろいろあったんだ。若いころの話だよ。そのせいでと言おうか、そのおかげと言おうか。とにかく、アルファもオメガもベータも関係なく、笑顔にしたいと考えるようになったんだ」  それはどんな話なのかと気になった。しかし先んじて「その話は、また今度」とかわされる。 「さて、美月くん。君がどうしたいのかを祐樹くんから聞いたけど、間違いがないか確認させてくれないか。――君は、和真くんの子どもをさずかった。そうだね?」 「はい」  かすれた声で、けれど覚悟を決めて美月は答えた。 (信用できる人だ)  川上が頼れないなら、ほかにもう手立てはない。なにもかもを正直に答えなければと、美月は総身に力を入れる。 「そんなに緊張をしないでいいよ。傷にさわるからリラックスして」  そう言われても身構えてしまう。美月は唇を引き結んだ。 「検査の結果、美月くんは妊娠していた。それは館には告げないから、大丈夫。祐樹くんからまず、美月くんが搬入される病院に連絡して、どんなケガであってもおおきな傷跡が残ると、教官たちに告げるよう医師に頼んでほしいと言われたし、妊娠のことは秘密にしてとも言われたからね」 「祐樹が」 「いい友達だね」 「――はい」  涙ぐんだ美月に、川上がうれしそうに目を細める。 「子どもを産みたい。そのためには館から出なければならない。そう考えて、わざとケガをしたんだね」 「そうです。財前さんに引き取られるのは、その」 「そのあたりも聞いているよ。安心していい。君のめんどうはしばらく私が引き受けるよ」 「すみません」 「気に病むことはない。そのかわり、元気になったら頼みたいことがあるから。それをしてくれると、約束してくれるかな?」 「頼みたいこと、ですか」 「そう」 「僕で、できることなんでしょうか」  館では自分の世話すら護衛任せで、できることと言えば話し相手かベッドの供くらいしかない。しかし川上が後者を望むとは思えなかった。 「話し相手ということですか」  もしかしたら、川上が引き取ったオメガたちの遊び相手をしてくれという依頼だろうか。想像をめぐらせる美月に、川上は「退院してから、伝えるよ」と内容を隠した。 「そういうわけだから、美月くんはなんにも心配しないで治療に専念するといい。館には、美月くんの顔の半分は戻らないと伝えておくから」 「それで、追い出されるでしょうか」  財前がそれであきらめてくれればいいがと案じる美月に、大丈夫と川上は繰り返す。 「私が引き取ると言うよ」 「それは」 「もちろん、それは方便だ。美月くんは、美月くんのしたいように生きていい」 「生きて」  自分の人生は自分のものだと言われた気がした。顔すらも覚えていない、遠い記憶の父親と川上が重なる。 「でも、僕は外の世界を知りません。館の中しか知らないんです」 「だから、私を頼ると決めたんだろう」 「ええ……はい、そうです。あの」 「悪いようにはしないから。頼ると決めたときのまま、私を信用しておくといい」 「はい」  だんだんと自分の計画の身勝手さを実感し、美月は恐縮した。 「ほかに、気になることはあるかな」 (和真は) 「あの」  美月は体を起こし、まっすぐに川上を見た。 「僕の護衛を、どうかよろしくお願いします」  正座をし、頭を下げる。 「君の、大切な人だね」 「はい」  きっぱりと答えて、美月は顔を上げた。 「和真は、お茶が大好きなんです。だけどそれを置いてまで、守りたい人がいるんです。だから、和真が館で護衛を続けられるように……大切な人の護衛になれるように、どうか、よろしくお願いします」  ふたたび頭を下げた美月に、川上は「うん」と軽く返事をした。 「そのことは、本人と話をするといい」 「え」  川上が立ち上がり、病室のドアを開く。そこに和真の姿を見つけ、美月は目を見開いた。 「祐樹くんがすべてを明かしたと言っただろう? 彼も真相を知っているよ。だから、じっくり話をするといい。――和真くん。無理はさせないように。私は館の代表者と話をしなくちゃいけないからね」 「はい。どうか、よろしくお願いします」  折り目正しく礼をした和真の肩に手を乗せて、川上が部屋を出る。それと入れ替わりに、和真がベッドわきのイスに落ち着いた。 「美月」 「――和真」  言葉が出てこない。  ふたりはしばらく無言で見つめ合った。 「美月」  沈黙を破ったのは、和真だった。 「ちょっと、俺の昔話につき合ってくれないか」 「昔話?」 「そう。俺の」  どうして和真がそんなことを言い出したのか、さっぱりわからない。けれど――。 「うん」  聞かせたいことなのだと、美月は受け止めた。 (守りたい人のことかもしれない)  祐樹からすべてを聞いたと、川上が言っていた。和真も、美月が和真の子どもを身ごもっていると知っている。そのうえで昔話をするというのは、そういうことに違いない。 (きっと、僕にあきらめさせるために、話をするんだ)  執念が怖いとでも思われたのか。そんなことを気にしなくても、川上に頼んでおいたのにと美月はほほえむ。 「聞きたい。――教えてほしい。和真のことを」  和真はひとつうなずいて、自分のことを話しはじめた。

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