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第5話

「ねえ、僕たちデートとかしないの?」  清潔な匂いのする部屋で、清潔に保たれたベッドの上で、珠樹は起き上がり、ベッドの縁に腰掛けてタバコを吸っている梶本(かじもと)を見た。彼は目をすがめて煙を吐き出すと、その煙をまといながら珠樹へと顔を向けた。 「ん? キミはそういう事がしたかった?」  優しく目を細めて、首をかしげる。珠樹は俯いて、二人の汗を含んだシーツのしわを意味もなく伸ばした。 「えっと……」  珠樹が何かを言う前に、梶本はタバコを灰皿に押し付け、体を珠樹の方へ向けると、頭を撫でた。 「僕はこういう関係だからキミと会ってるんだけど」 「…………」 「僕はキミを守ってあげられるほど強くはないし、そんなつもりもないよ」  優しい声と態度はそのままなのに、吐き出される言葉は辛辣だ。珠樹は胸から何か大切なものが出て行ってしまったような気がしてゾッとした。 「守ってもらおうなんて思ってないよ……」 「ちゃんと恋人として付き合うっていうのはそういう事だよ。特に僕たちのようなセクシャリティの人間はね」  確かにそうだ。珠樹もわかってはいる。自分は子供で、梶本は大人で、それだけでも世間からは許されない。そしてきっとずっとつきまとうであろう奇異の目。平穏に生きるためには何もかも隠し通さなければならない。そうで無い道を選んだとしたら、あらゆる痛みに耐えていかなければならない。しかしそれらを彼に丸投げしようとは思っていないつもりだった。 「僕大丈夫だよ。梶本さんと一緒ならきっと耐えられる」  梶本の腕をすがるようにつかむと、やんわりと反対の手で押し戻された。行き場を失った手は、彼の大きな手のひらに包み込まれてシーツの上に押し付けられる。 梶本が小さくため息を吐いた。 「キミ、好きな子いるでしょ」  はっとして、体を強張らせる。珠樹は顔を伏せた。軽く唇を噛んで、梶本の手の下にある自分の手のひらをぎゅっと握る。 「僕と恋人同士になったとして、その子への想いはどうするの? いつかきっと後悔する事になるよ。そうならなくても、こういう関係を持った事は絶対に後悔する。わかってたけど言わなかった。ごめんね」  珠樹はさらにきつく唇を噛んだ。そんな事はわかっている。そして梶本は珠樹がわかっている事をわかっている。だからといって、どうしていいかわからずに、俯いたまま黙り込んだ。 「もう会うのはやめよう」 「え……」  思わず顔を上げてもう一度彼の手にすがる。今度は遮られる事もなく、しかし、触れられてもいないように完全に無視された。 「キミがそういう事を言い出したら、この関係を終わらせようと思ってたんだ。勝手な事言ってごめんね」 「そんなの嫌だよ。ごめんなさい。僕もう言わないから。このままでいいから。まだ、まだそばにいてよ……」 「さっきも言ったけど、キミと会っていたのはセックスする相手が欲しかったからだよ。僕は重い荷物を背負って生きていく気はないし、そこまでの覚悟もない」 「荷物……」 「酷い事を言っているのはわかってるよ。でもこれが僕の本心だ。僕の態度が何か勘違いをさせてしまったのなら謝るよ。ごめんね」  青ざめてしまった珠樹から目をそらせるように背を向けて、梶本はサイドテーブルからタバコを取ると、火をつけて大きく煙を吐き出した。 「こんな男なんだ。キミはまだ若いから、初めて出会った僕のような人間に夢を見ているだけだよ」  珠樹はぶんぶんと頭を振る。しかし、彼の言うとおりだ。珠樹は佑が好きで、そしてその想いは変えることなく、ぬるま湯につかるように彼との関係を続けようとしている。つらい現実に目を背け、確かに珠樹は梶本に夢を見ていた。  梶本はゆるりと立ち上がると、床に散らばっていた珠樹の服を拾い集めてそれを渡した。珠樹は何も言えないまま受け取り、しかし動くこともできずに俯いている。梶本はそっと珠樹の頭を撫でると、自分の服を身に着けていった。  彼は今までに出会った事のない類の人間だった。柔らかな物腰で優しく静かに話す梶本が、珠樹は好きだった。佑への想いほどではないにしても、本当に好きだったのだ。梶本はずっと優しかった。だから欲張ってしまった。  彼の優しさに甘え、珠樹は彼を失った。  もう何がなんだかわからなくて吐きそうになる。  涙がぽとりと抱えていた服に落ちる。梶本はそれをちらりと見て、ネクタイを締めると、財布から一万円札を取り出して、ベッドの上に置いた。 「ごめんね。さようなら」  無情にも、ばたんと扉が閉まる音が響く。  珠樹は服を抱きかかえたまま震えた。  中途半端な気持ちで安易に人の優しさだけを手に入れようとすると、こうなるのだと思い知らされた。 「あ! たす……く……」  はりあげようとした声が小さくしぼんで床に落ちた。 美術準備室のドアを開けたとたん浮かんだ佑の笑顔は、今まで珠樹には一度も向けられることのなかった、熱っぽい、夢に浮かされているような、相手を愛している表情だった。  きっと自分はあんな風に見つめてもらえる事はないだろう。  女だというだけで、彼女は容易く佑を手に入れられる。彼女とは性別が違うというだけで、自分はどれほど大きな壁を乗り越えなければならないのだろうか。彼女なんかよりずっと、佑を必要としているのは自分のはずなのに。  手慰みに生徒をからかっているだけなのだ。前からずっと噂になっていた。佑だって、きっと知っている。それでも、彼女は選んでもらえるのだ。選択肢の中に、珠樹は入っていない。  ぎりと奥歯を強く噛んで、教室に背を向ける。  苛立ちのはけ口を求めるように、珠樹は携帯を取り出した。梶本に連絡を取ろうとして、携帯電話を持っていた手がゆるりと落ちる。  あ、そっか。  そういえば、自分はすべてを失っていたのだ。  こんな絶望を抱かなければいけないほどの何かを、自分はしたというのだろうか。  ただ、同性が好きだというだけで、こんなにも世界は暗く冷たく凍り付くのか。  それはまだ高校生である珠樹には耐え難いものだった。  もうこんな世界からいなくなってしまいたいのに。  佑はきっと珠樹がいなくなると、まるで半身を失ったかのように嘆き悲しむだろう。  うぬぼれているわけではなく、そうなのだ。それはもはや確信に近い。  だから珠樹は生きている。報われない想いを抱え続けて。  佑を悲しませない為だけに。

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