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第6話
「あ、佑くん」
綺麗な声で名前を呼ばれ、佑はぴたりと歩みを止めた。振り返る事を体が全力で拒否している。しかし、走って逃げる事も出来ず、佑は振り返ると口の端を引きつらせて笑顔のようなものを作った。
「授業さぼってばかりで全然顔を見られないんだもの。心配してたのよ?」
首に手をやって俯く。何も言葉が出てこない。
ずっと避けていた。授業すらさぼって顔を合わせないようにしていたのだ。己の情けなさにうんざりする。
そしてそれをわかっていて、彼女はわざと声をかけている。そういう人だ。
「そんなんじゃ単位あげられないよ? って言っても、わたしもうやめちゃうけど」
ふふふ、と笑う口元に添えられた手にはきらきらと輝く指輪がはめられている。
佑はかすれた声で「すみません」と呟いた。
みっともない。
しかし、どんよりと曇ってしまう心をどうする事もできない。見せつけられている指輪はきっと婚約者からの贈り物で、どうあがいても佑が贈ってあげられるようなものではなくて。そもそも、贈る権利すらもらえなかった。学生なのだから当然だ。相手は教師だ。自分のような子供はからかうのにちょうどいいのだろう。
熱を上げている相手に、気持ちすら与えずに、期待だけもたせる。
……あれ。俺、同じ事珠樹にしてないか?
「ちゃんと……」
彼女が最後まで言い終わる前に、大声で自分の名前を呼ぶ珠樹の声が聞こえた。
走って近づいてくると、ぐいと腕を引っ張られる。
「僕たち用事あるんで」
冷たい声で放たれた珠樹の言葉に動じる様子もなく、彼女は「そう」と微笑んだ。「仲がいいのね」と。
珠樹はじろりと彼女を睨みつけると、佑をずるずると引きずっていく。
十分距離が離れたところで、珠樹は手を離した。
「佑、大丈夫?」
佑はのろりと顔を上げ、少し青ざめた表情で珠樹を見た。口を引き結んで何も言わない。「大丈夫?」とかけられた言葉に心がささくれだった。
いったい何を心配されるような事があると言うのか。
「余計な事すんなよ」
佑の低い声に、珠樹はぐっと息を詰めた。
あんなのどうってことない、と、強がっていたかった。しかし、相変わらず顔は青ざめて、唇が震えて言葉が出ない。十分傷ついていた。認めたくないだけで。
あの細い指にはめられていた指輪が頭から離れない。
もう自分には手の届かないところへ行ってしまったのだと、思い知らされた。
いや、最初から、手なんて届いていなかった。
「ごめん、佑。僕勝手な事しちゃった」
えへへと笑う珠樹の表情が曇り、声がしぼんで消えた。
「ねえ、もう忘れちゃいなよ」
なかった事にできればどれだけ楽だろう。
会わなければ、持っていかれた心も戻ってくると思っていた。
だからわざわざ、忘れろなんて言われたくなかった。
佑の体に触れようとした珠樹の手を思い切り振り払う。
「触んな!」
ぎゅっと顔を悲しみに歪めて、珠樹は払われた手を胸元へ持っていった。
「あいつはわざと佑を傷つけてるんだよ? どうして嫌いにならないの?」
珠樹の言葉に体が強張る。佑は拳を握り締めた。
「あいつにとって男なんてアクセサリーみたいなもんなんだよ! 自分を良く見せてくれるものを手元に置いて、気まぐれに付け替えて、いらなくなったら捨てるんだ。もっといいものをみつけたから、見せびらかしてるんだよ! 自分の満足のためだけに!」
「…………捨てられたって言いたいのか?」
珠樹が息をのんだ。
「そんなつもりじゃ……」
「言われなくてもわかってるよ、そんな事。いちいち言葉にしてもう一回俺を傷つけて、なんになるんだ? 珠樹には関係ないだろ!」
ぐっと口をへの字に曲げて、唇を噛む。珠樹は目を閉じて叫んだ。
「あんな女のどこがいいんだよ!」
すっと頭の血が冷えた気がした。佑の目の前にいるはずの珠樹が、何枚もの膜を隔てたところにいるように見えた。彼の声が耳にわんわんと響く。しかし、うまく聞き取れない。
今から口にしようとしている言葉を、やめろ、と止める声が聞こえたような気がした。
「……少なくとも、彼女は女だ。お前とは違う」
ぎしりと珠樹の顔が強張る。
やめろ、と言う声がまた聞こえた。
「所かまわずべたべた触ってきやがって」
そんな事を言うつもりは無いのに、言葉が止まらない。さらに大きな声で佑の中の何かがやめろと叫んだ。
「気持ち悪いんだよ!」
自分の言葉にハッとして、佑は顔を上げた。
すぐに謝ろうとした。でも、声が出なかった。
大きく風が吹いたはずなのに、木々がざわめく音さえ聞こえたのに。
佑の言葉はその音にかき消されたりはしなかった。
珠樹はわなわなと唇を震わせて、零れ落ちそうなほど目に涙をたたえて、顔全体に悲しみの表情を浮かべて、それでも拳を握り締めたまま、何も言わなかった。俯きさえ、しなかった。笑って何かを口にしようとして、珠樹の目から涙が零れ落ちた。
佑はじりと後ろに下がると、珠樹に背を向けて逃げ出した。
言わなければならない事があるはずなのに。
傷つけたまま、放り出した。
自分が傷ついたから、珠樹を傷つけるなんて。そんな事許されるわけないのに。
八つ当たりどころの騒ぎじゃなく、致命的な一言を放ってしまった。
怖くなった。壊してしまった物の大きさを考えると。
俺は何も、変わってない。
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