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第10話「エチュード op.10-3 ホ長調」
「だったら俺の心臓持ってけよ」
そう言うのが精一杯だった。
(俺は……)
なんてひどい事をしてしまっていたのだろう。
死の恐怖と向き合う山本に「死ぬんだ」と告げて。
引き返せない死の恐怖と戦う彼の覚悟を否定して、壊そうとして。
(俺はなんて、ひどい事を)
止められないんだ。
もう。
帰る場所が俺だと決めた彼を、引き止められない。
山本は決意した。
死ぬ覚悟じゃない。
生きる覚悟だ。
死んだ後も、俺の中で生き続ける……
(想いを)
託そうと、彼は決意している。
俺を信じて。
俺は、お前を信じて。
俺は生き続けなければならない。彼の想いを生かすために。
ずっと一緒に生き続けるために。
『これからも一緒にいられるな!』
そう言ったお前の気持ちが、今ようやく分かる。
苦しい程に。
呼吸も鼓動も止めてしまうくらい、狂おしい程に。
「嫌だよ。俺は、動いているお前の心臓が好きだからな」
「そう、か」
あたたかい彼の鼓動に救われているのは、俺の方だ。
「山本。あれ、よこせ」
「あれって?」
「青酸カリ」
俺たち兵士は敵の虜囚となった時に自決するため、青酸カリを渡されている。
いぶかしげな面持ちで、山本がポケットから取り出した白い小さな包み紙を受け取った。
「これはもう俺の物だから、お前は死なない」
こんな子供騙しで、なんの解決にもなりはしないのに。
「じゃあ藤堂の、俺にくれるか」
言われるままに、包み紙を渡した。
「これで藤堂も死なないな」
お互いのポケットにある青酸カリは、自分の物じゃないから使えない。
なんだよ、この変なマジナイは。
「俺たちはガキか」
一緒にいたいと、我が儘が言いたい。
それが言えない大人になってしまった。
………………お前がいなくなるのが怖い。
俺はもうすぐ独りになる。
明朝、お前は知覧に発つ。
鼓動をもう二度と重ねる事はできないのかと思った、瞬間。
山本を抱きしめていた。
ハッと鼓動が膨らんで、山本が息を飲んだのを感じた。
その背中を叩く。
静かに、ゆっくり。リズムを落とす。
口ずさんだのは、あの旋律だった。
「別れの曲……」
「違う。エチュード op.10-3 ホ長調だ」
ピアノの詩人が愛した至高の曲を、月明かりに乗せた。
「よく分かったな、俺の一番聞きたかった曲」
「幼馴染みだからな」
ルゥルールルルルー
ルルールゥルールルルルゥルルルルゥ
子守歌のように。
月明かりにささめいて。
口ずさんだ。
ピアノじゃないけれど。
鍵盤を滑る指が、音と一体となるように。
睫毛を伏せた彼の鼓動と、俺の鼓動が重なってゆく。
これは、別れの曲じゃない。
ソ連の侵攻でポーランドは併合され、ショパンは母国を失った。
二度と母国に戻れない。
悲しみの朝を迎えた訣別の曲。
違う。
帰れないから、音楽に乗せたんだ。
音楽が母国に届いて、母国にいる友に、この音が響くように。
友の中で、音楽が生き続けるように。
魂を音にして、ショパンは母国に帰ったんだ。
まるで、お前じゃないか。
(山本)
こんな美しい旋律には、もう出逢わないだろう。
歌い続ける。
頭上の月が傾くまで。
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