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2.電話
「ぶわっ、なんだ、電話」
めったに鳴らない携帯電話が大きく鳴り響いた。思わずぶさいくな声をあげながら音の発信源を探す。
変な声、と先ほどまで会話をしていた相手に笑われてうるさい、ちょっと出てくるとだけ言ってその場を離れた。
少し離れたところにあった携帯をようやく手元に収める。表示された見覚えのない番号に首をかしげながら着信ボタンを押す。
「はい、植木です」
登録していない後輩の携帯だろうか。だれかから紹介された別の会社の人だろうか。携帯を変えたお客さんだろうか。覚えのない番号だが電話をかけ慣れも、で慣れもした俺にはそこまでひっかかるものはなく名乗れた。
トラブルじゃなければいいなとベランダに続くドアを開けた。思わず、さむ、と言ってしまいそうなのを飲み込んだ。もう半袖ではだめらしい。
「こんばんは。……植木、信也さんですか」
「はい、そうですが」
はっきりと聞こえた挨拶のあとに自信なさげな名前の確認。初めて電話をかけてくる相手のようだ。
部屋にかかる時計の時間を見て、こんな時間に何だろうかと少し不信感を覚えた。
「小野屋です。小野屋優です」
「え? あ、おー、優か」
少しだけ落ち着いて口調と声のトーン。だけどその声の主は見知らぬだれかではなく確かに知り合いのものだった。
聞きなれない堅苦しい言葉遣いに相手が緊張していることがわかる。
「いつぶりだよ。なーに、です、とか言っちゃって」
「いやいや、知らない人だったら怖いな、みたいな」
「携帯にかけてんだから知らない人なわけないだろ」
少しずつ時間が巻き戻る。俺の中には完全に最後に会った優が浮かび上がっていた。
それは優も同じなのか、徐々に口調はほどけていく。少しだけ落ち着いた声色なのは緊張ではなく大人になったからのようだ。口調が砕けてもその声色は変わらなかった。
しばらくの間近況報告をしあった。今何をしている、どこに住んでいる。
「ほんと、急に電話かけてくるからビビったわ」
「番号変わってたらどうしようか不安だったわ」
そういえば自分の携帯には優の番号が表示されなかった。あいつは番号を変えたんだろうか。それとも、俺が登録していなかったんだろうか。
「てかおまえガンとかと連絡とってんのか」
「岩谷? ちょうどこの間会ったとこ」
「えー、俺久しく会ってないんだよな。また集まろうぜ」
懐かしい友人の名前を並べていく。もう忘れていたと思っていた思い出が色あせることなくよみがえる。
「うわ、めっちゃ話し込んだな。やっぱ今度会おうな。今日はそろそろ終わるか」
壁掛け時計の音が鳴るのがベランダにも聞こえた。そこで初めて部屋の中をのぞくともうずいぶん時間が経っているようだった。
学生の頃は毎日がこんな感じであっという間に時間が過ぎていた気がする。
「なあ、信也」
「どうした」
落ち着いた大人の声色。はしゃいでいる俺の声も自然に大人の自分に切り替わる。
「なかったことにしようとしてるのか」
突然寒さを思い出した。外気に触れる肌を空いている手でこすった。
見上げた空に浮かんだ満月を見て、いつかの夜を思い出した。
「そのつもりなんだが」
なにが、なんてとぼけたふりをするつもりはなかった。だけどあのことか、と口にするのは恥ずかしかった。
今はもう遠い過去の話のはずなのに。
「おまえも連絡よこさなくて何年たった」
電話がかかって来た時の緊張した優の声を思い出す。あの緊張した声を思い出す。
恐れるように出たごめん、を思い出してしまった。
「なかったことにしたくなくて、電話したって言ったらどうする」
自分の中で何かが浮ついて、そして優しく溶けたのが分かった。
「遅いよ」
たった一言。
もっと早く聞きたかったとさえ口にしない。
その時すらももう過ぎてしまった。
こんこん、とベランダのドアをたたく音が聞こえた。明かりのついた部屋から寝間着を着た姿が見える。
「大事な人がいる。娘がいるんだ」
おやすみ、と口パクで伝えて手を振った。わかったのか、小さく頷いて部屋の奥へ消えた。
「安心して。俺にもちゃんと大事な人がいる」
落ち着いた中に力強い様子を感じて少し安心した。心配できる立場ではないが、俺のせいで引きずっていたら申し訳なかった。
「節目で、信也のこと思い出した。あの時考えられなかった、考えなかった信也のこと。絞り出した言葉しか伝えられずに離れたこと。だけど何一つなかったことにはしたくない。あのときの俺と信也は必要だった。あんな終わり方はいやだって思った」
勝だな、とはっきり思った。
俺が好きになったのは多分優のこういうところだったんだ。
「信也とのことなかったことにしたくない。好きなんだ、親友」
何年か越しにもらったその称号に泣き出しそうになった。
恋人になりたくて告白をした。苦しいほど緊張したごめんをもらった。
そしてそのまま会うことも連絡を取ることもなくなった。
忘れたことにしていないとつらすぎて、なかったことにしていないと悲しくて。
だけど大事な人ができるほど、あの時の気持ちもなかったことにはできなかった。心の奥底に大切に残した。
「そういう大事なことは顔見て言ってくれ、ばか」
親友と言ってもらえたことが嬉しかった。また友人でいられることがなによりも。
「それじゃ、また」
「連絡する」
長い年月を埋めるための一歩のこの電話を切っても。今度は離れることはない。
部屋に入って大事なものを抱きしめながら、増えた大事なものを考えた。
END
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